安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「助ける法」を聞くと「で?」となる構造について考える

阿弥陀仏の助ける法を聞くと、私たちはどうしても「で?」と疑いを差し挟んでしまいます。
このブログでもいろいろと取り上げてきましたが、いくつか例を挙げると

例1

A「阿弥陀仏の本願はただ今助ける本願です」
B「ではどうやって助けてくださるんですか?」

例2

A「本願を疑い無く聞くだけです」
B「どうやって聞くんですか?」

例3

A「直ちに来れと言われているのでそのまま聞いてください」
B「そのままってどういうことですか?」

言葉の性質ついて

阿弥陀仏の本願も、親鸞聖人の教えも、言葉で伝えられたものです。大無量寿経や、教行信証は言葉で書かれています。しかし、言葉というのはどうしても、ある対象を想定して使われているのが私たちの日常なので、本願名号についても同じように考えてしまいがちです。

例えば、皆さんも聞かれたことのあるたとえ話に、南無阿弥陀仏を薬にたとえる話があります。このたとえ話では、実際の南無阿弥陀仏と合わないところがあります。
それは、私たちの日常で「薬」という言葉と、「薬そのもの」は別ものだからです。例えば「頭痛にノーシン」は薬の名前(商品名)ですが、この「名前」は「言葉」であって「薬そのもの」ではありません。薬の名前は、病気を治す力は当然ありません。商品を分別するためのいわば記号にすぎません。

上記の例に当てはめるとわかりやすいかもしれません。
A「ノーシンは頭痛に効く薬です」
B「ではどこでその薬はもらえるんですか?」
このような感じで、南無阿弥陀仏も考えてしまいがちですが、実際は違います。


名号(言葉)が、そのまま働き

南無阿弥陀仏を薬というならば、「薬」という「名前」が、「そのまま薬本体」というのが南無阿弥陀仏です。

御文章では、以下のように言われています。

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。(御文章5帖13通)

http://78i.m9.sl.pt

南無阿弥陀仏とは、わずか六字の文字のように思いますが、この六字の名号に無上甚深の功徳があるといわれています。
この御文章を読んでも、「それでは無上甚深の功徳はどこかにあるのでしょうか?」と考えてしまいがちです。なぜなら、先ほどの薬のたとえで言えば「この薬は無上の功徳があるという効能書き」が、南無阿弥陀仏の六字だと考えてしまうからです。

「無上甚深の功徳」という言葉を聞いたり読んだりすれば、それに相当する対象を別のところに探してしまうのは、日常使っている言葉がそういう性質を持っているからです。

しかし、上記の御文章で蓮如上人が言われていることは、「名号そのものが功徳」ということです。「名号という名(言葉)」以外のところに「無上甚深の功徳」はありませんよということを言われているのです。ですから、南無阿弥陀仏は、言葉ではありますが、「何かの対象(または概念)を規定した言葉」ではありません。


南無阿弥陀仏や南無阿弥陀仏のいわれ、仏願の生起本末を「何かの対象(または概念)を規定した言葉」と考えていると、「そこで表されている何か」を探そうとしてしまいます。その前提で法話を聞いたり、お聖教を読むと、「このお言葉であらわそうとされている何か真実があるはず」と考えてしまいます。


そこで、「この知識の説かれる言葉の裏の真実を、その人の言葉をたよりに聞こう」と考えれば、知識帰命への第一歩です。「この人から聞かねば救われない」と思えば、立派な知識帰命のできあがりです。「あの先生の言葉の裏になにかあるに違いない」という聞き方は、何十年聞いても救われないのはそのためです。ないものを聞こうとしているからです。


そうではなくて、「南無阿弥陀仏」という「名(言葉)」そのものが、私を救う働きであるということですから、「さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり」と言われています。
私が称える南無阿弥陀仏、御文章に書かれている南無阿弥陀仏、いま文章を読んで頭に浮かんだ南無阿弥陀仏、それ以外に信心といっても別のところにあるのではありません。お釈迦さまが、説明上言葉にされたものではありません。この名号そのものが、阿弥陀仏と別ではないので、これを名体不二といいます。


そこで、親鸞聖人は

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(顕浄土真実教行証文類 序)

http://78i.vw.sl.pt

と言われています。
摂取不捨の真言も、超世希有の正法も、本願名号のことです。この南無阿弥陀仏が私を摂取して捨てられない真言であるといわれています。「真言」ですから、世の中にある「言葉」ではないということです。名体不二の名号です。
この南無阿弥陀仏が、「ただ今救う」の法であると聞きなさいと勧めておられます。「その言葉で表されている摂取不捨の真言はどこにあるのでしょうか?」と遅慮してはならないと言われています。


一生懸命、言葉に表されているところの対象(救い)を言葉以外から探しても、それは陽炎と同じで実態はありません。自分で勝手に生み出したものですから、どこまで行ってもないものにはたどり着けません。
この「本願招喚の勅命」である南無阿弥陀仏という口で称えれば念仏、文字で書けば六字以外に信心も救いも功徳もありませんから、「勅命のほかに領解なし」と昔の人はいわれました。