安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「生まれてきたことが阿弥陀仏のお計らいということですが、不慮の事故や病気で阿弥陀仏に助からずに亡くなってしまうことも阿弥陀仏のお計らいなのでしょうか。今生で助かるかどうかは阿弥陀仏が決めることでしょうか。」(ゼニガメさんのコメント)

ゼニガメ 2012/10/19 06:05
生まれてきたことが阿弥陀仏のお計らいということですが、不慮の事故や病気で阿弥陀仏に助からずに亡くなってしまうことも阿弥陀仏のお計らいなのでしょうか。今生で助かるかどうかは阿弥陀仏が決めることでしょうか。また、動物に産まれることも阿弥陀仏のお計らいでしょうか。十方衆生が助かるということがどうしても理解できないのでご教授願います。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121018/1350549413#c1350594343

「阿弥陀仏のお計らい」の意味について

阿弥陀仏は私の運命を司る神ではありません。ゼニガメさんのコメントの文面では、そういう意味で使われているように感じました。

阿弥陀仏の本願は、すでに成就して現在ただ今私に働いてくださいます。それは、私が十方世界のどの衆生に生まれても働いておられるということです。どの世界の、どんな姿に生まれていたとしても阿弥陀仏の本願力の及ばないところもなければ、及ばない時もありません。そのように、四六時中私に働いて下される本願力を「阿弥陀仏のお計らい」と私は書いています。

では、不慮の事故や病気になるのは阿弥陀仏の力によってそうさせられたのかというと、そういうことではありません。死の縁無量ですから、どのような死に方をするかは一人一人どうなるかはわかりません。それぞれのさるべき業縁によってそうなるものです。しかし、たとえどのような業縁がやってきたとしても、阿弥陀仏の願力は常に私を照らして見放されません。

どんなときでも、見放さず、私を救おうと支えてくださっているお働きにたいして、私の方では阿弥陀仏のお陰で生かされているといいます。

動物に生まれたことも、私は過去あったと思いますが、その動物であったときも阿弥陀仏の願力は常に私に働いておられます。

十方衆生が助かるということがどうしても理解出来ないとのことですが、

(82)
十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃)

十方世界の衆生を、逃げるものは追いかけてでも救うから阿弥陀仏と名付けられている仏様なのです。

コメントの内容で、「十方衆生が助かるということがどうしても理解出来ない」と書かれていましたが、これは「人間は助かるけど、動物までも助かるというのが理解出来ない」ということでしょうか?それとも、ほかの意味でいわれたのでしょうか?
分からないところがありましたので、十方衆生を助ける本願が成就しているので、阿弥陀仏となられているのだというご和讃を紹介しました。本願が成就していなければ、阿弥陀仏という仏にはなっておられません。阿弥陀仏という仏になられたということは、私が助かるお働きが完成したということです。