安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「計らうのは自力、その計らいを捨てることも阿弥陀仏の働きなら、救われた人とそうでない人の違いは何のでしょうか。」(bsfさんのコメント)

bsf 2012/08/24 19:10
阿弥陀仏の呼び声を聞こうと何かしようとするとすべて自力。
かと言って何もしなければ、ほんとに何もしてないだけ。
というよりも、救われるために何もしようとしないのもやっぱり自力。

自分の計らいをすてて、そのまま聞くだけというのが、こんなにも難しいものなのかと思います。
計らうのは自力、その計らいを捨てることも阿弥陀仏の働きなら、救われた人とそうでない人の違いは何のでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120823/1345710792#c1345803050

阿弥陀仏にすでに救われている人と、そうでない人の間に何か努力の量や、学問の有無、無常や罪悪を見つめていたとか、見つめていなかったという違いはありません。
お尋ねの趣旨からいうと、救われている人は法を聞いている人です。救われてない人は、法を聞かずに自分の心に向き合っている人です。
なぜ法を聞かずに自分の心に向き合うかといえば、仏智の不思議を疑っているからです。

(67)
自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける(正像末和讃)

bsfさんが、なにかしても自力、しなくても自力と自力と向き合っておられるのは、上記のご和讃でいう「仏智の不思議をうたがう自力諸善のひと」ということになります。なぜ、そのようになるのかといえば「自業自得の道理」いわゆる「因果の道理」を阿弥陀仏の救いにあてはめて考えているからです。
自業自得の道理からいえば、自分が何かしないことには自分に得るものはなにもありません。そこで、自力を捨てねば救われないと聞くと、「何かをしたから」自力が捨てられるのではないかと考えてしまいます。

しかし、阿弥陀仏の本願は、自業自得の道理ではなく救済の道理です。「お前を助ける」という本願です。かりに自業自得の道理でいえば、私が何かをしないと絶対に助からないことになります。阿弥陀仏の本願は、救済の道理ですから、「お前を助ける」本願を聞くだけです。私のほうでは特になにもしておりません。

本願を聞かずに、どうしたらいのかという「自業自得の道理」の発想で計らいばかりをしていたら、いつまでもそこにいるだけです。

最後にお軽さんの歌からみてみます。

聞いてみなんせまことの道を 無理なおしへじゃないわいな
まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみであるぞいな
自力はげんでまことはきかで 現世いのりにみをやつす
思案めされやいのちのうちに いのちをはればあとじあん
領解すんだるその上からは ほかの思案はないわいな
ただでゆかれるみをもちながら おのがふんべついろいろに
おのがふんべつさっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ(お軽同行の歌)

「まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみであるぞいな 自力はげんでまことはきかで」とありますが、自力が捨てられないと悩む人は努力が好きな人でしょう。しかし、阿弥陀仏の救いに努力を持ち込む必要はありません。救われる前に努力しなければとがんばるのは「まこときくのはおまへはいやか」とお軽さんがいう通りです。
「思案めされやいのちのうちに いのちをはればあとじあん」ですから、いわば今聞かなかったらあれころ計らったといっても手遅れになるということです。
ただ今救う本願を聞けというのが、阿弥陀仏の勅命です。どうしたら自力が捨てられるのかという分別もふくめてまるごとやめて、弥陀の思案にまかせてください。