安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「十刧安心との違いを説明していただけませんか。」(田中屋さんのコメントより)

田中屋 2012/08/22 20:01
十刧安心との違いを説明していただけませんか。
よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120822/1345627431#c1345633265

十劫安心とは何かについて最初に書きます。御文章に十劫安心について以下のように書かれています。

「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。
これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。(御文章2帖目11通)

http://goo.gl/Nli49

そのことばにいはく、「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。(御文章1帖目13通)

http://goo.gl/KEWK4

十劫安心は、阿弥陀仏が十劫の昔に仏になられて本願が成就したことを知って忘れないのが信心であるという異安心のことです。
一言でいえば、「本願を知って忘れないのが信心」と思っている異安心です。いわゆる「知って忘れない」というだけで、弥陀に帰命したということがないので、無帰命安心ともいわれます。

そこで、この十劫安心に対して上記に「弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし」(2帖目11通)「他力の信心といふいはれをしらず」(1帖目13通)といわれています。

そこで御文章ではくりかえし「後生たすけたまへと一心に弥陀をたのむ」のが信心であると書かれています。

そこで田中屋さんのコメントでは、前回のエントリーに書いた内容が十劫安心とどう違うのかというお尋ねでした。

あたらめてエントリーを読み直しました。南無阿弥陀仏と私についていろいろと書きましたが、帰命するということについては特に書いていませんでした。そういう点でわかりにくい表現になっていたことはお詫びいたします。

後生助けたまへと一心に弥陀をたのむ相が、前回のエントリーに紹介した才市さんの歌です。
私と阿弥陀仏の間には、なにも隔てるものがありません。「知って忘れない」というような、自分の考えや記憶に頼るものではなく、現在ただ今南無阿弥陀仏となって私に呼びかけられることをそのま聞いているのが信心です。

「知って忘れない」という十劫安心とは違います。