安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:自分の願望を先にするより、まけて信をとるべき(頂いた質問)

前回のエントリーについて、追記します。yさんコメント有り難うございました。

どうしても自分の願望が先に出て、『必ず助ける』の阿弥陀さまの声が聞こえません(頂いた質問)

自分の願望を先にするというのは、阿弥陀仏に先んじようという心です。先手の本願と聞いても後に引かないのは、阿弥陀仏に対して「おとるまじきと思う心」です。阿弥陀仏に対して、我を張るのではなく「まけて信をとるべき」と蓮如上人の御一代記聞書に書かれています。

一 総体*1、人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふ*2なり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理*3をみて情*4を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。(御一代記聞書P160・浄土真宗聖典(註釈版)P1282

信心の上での「我」というのは、「自力我執」といわれるものです。この自力我執といわれる阿弥陀仏に対する計らいを捨てて、阿弥陀仏の本願にまかせるのを無我とここではいわれます。
世の中のことは「人にはおとるまじきと思ふ心」で、上達もしていきますが、阿弥陀仏に対してそれをもってきてはならないのです。

「どうか助けて下さい」と祈願の心になるのも、「なぜ助けてくれないのか」の心があるからです。それは、阿弥陀仏に対して「まず私が」と我を押し通そうとする心です。また、自分の欲求を押しつけようとすれば、苦しくもなり、疲れても来ます。
しかし、私の計らいによって救われるのでなく、阿弥陀仏のはからいによって救われるのですから、自分の要求は一端引き払って「まけて信をとるべきなり」です。
信心は、何かに勝利したら手に入るものではありません。

*1:概して。総じて

*2:為習う。しなれて上達する

*3:ことわり。道理

*4:我執。我情