安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願と信心の沙汰について(アドウチさんのコメント)

アドウチ 2012/08/25 02:31
 本願は、私の心の状態に関係なく救って下さると聞いていますが、その反面 信心の沙汰
をして自分の心をありのままに打ち出すことが大事だとも聞いております。
 この前者と後者の違いをどう解釈すればいいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120823/1345710792#c1345829516

信心の沙汰とは、「自分の心を阿弥陀仏の救いに合う状態にもっていく」とことを目的にしているものではありません。整体の人に、骨格のゆがんだところを直してもらうようなものとは違います。自分で勝手に「これで信心をえた」と思っている信心が間違いかどうかを互いに沙汰するのが、信心の沙汰の目的です。

一 仏法の由来を、障子・かきごしに聴聞して、内心にさぞとたとひ領解すといふとも、かさねて人にそのおもむきをよくよくあひたづねて、信心のかたをば治定すべし。そのままわが心にまかせば、かならずかならずあやまりなるべし。ちかごろこれらの子細当時さかんなりと云々。
一 信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば治定すべし。一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。(御文章4帖目7通 六か条)

上記の御文章では「信心をえたるとほりをば、いくたびもいくたびも人にたづねて」とあります。(自称)信心をえたなら、それをいくたびも人に尋ねなさい。なぜなら、ちょっと「障子・かきごしに」聞いて「内心にさぞとたとひ領解」したとしても、「わが心にまかせば、かならずかならずあやまり」になるからです。

阿弥陀仏の救いは心の状態に関係なく救ってくださいます。しかし、「これが救いだ」「これが信心だ」という人は、自分で思ったとおりになったことを「信心だ」と思い込もうとしてしまいます。いわゆる一人合点になっては、信心ではありませんので、よくよくその沙汰をせよといわれます。

では、自称信心をえた人でなければ信心の沙汰をする必要がないのかといえばそうではありません。過去聞いたことも含めて、わからないところ、不審なところは考えてもわらないところは「わからない」とそのまま言うのも信心の沙汰です。そもそも「善をしなければ救われない」と思い込んでいる人などは、本願はもともとそういうものではないということを、よく沙汰されればいいと思います。