でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
他力の行信については度々お話を伺っていますが、自力の行信が何か分かりません。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110419/1303154160#c1303164967
もしかして、他力を願いながらも自力を捨てきれない、今の私の状態を指してるのでしょうか。(でんさんのコメント)
自力の行信は、でんさんのコメントの言葉を使えば、阿弥陀仏のお力によって助かろうと思っていても、自力を捨てきれない状態です。
ご和讃では、以下のように説明されています。
(60)
不了仏智*1のしるしには 如来の諸智を疑惑して
罪福信じ*2善本を たのめば*3辺地にとまるなり(正像末和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P610)
このご和讃では、行は「善本」で、念仏です。しかし、信が「罪福信じ」です。
「罪福信じ」とは、自業自得の道理を信じて、その道理を阿弥陀仏の救いに当てはめようとすることです。自業自得、自因自果だから自分が何かをしないと自分に結果は絶対に来ないという信心で、念仏もその称えた功徳を自分のものと考えてます。そして、称えた功徳をもってなんとか往生の足しにしようと思います。それが「罪福信じ善本をたのむ」心です。
自分の称えた念仏の功徳を信じるのであって、阿弥陀仏の本願力を信じないということですから、本願を疑っている心です。本願力によって阿弥陀仏が差し向けて下さるお働きによって、真実の信心が開けるとは思えない心です。思えないから、弥陀をたのむ心になりません。結果として報土往生は出来ないと言われています。
自力諸善によって助かろうという人については、以下のご和讃で言われています。
(67)
自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理*4にて 七宝の獄にぞいりにける(正像末和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P611)
このご和讃でいえば、行は「自力諸善」、信は「仏智の不思議を疑う」です。
「仏智の不思議を疑い」、自力諸善を行ずるのですから、先ほどのご和讃でいうと「罪福信じ」る信です。
念仏よりも諸善、または念仏も諸善と同じくらいに考えて行をします。行が自力諸善ですから、自業自得の道理によって、結果は報土往生とはなりません。
阿弥陀仏の本願を聞き、南無阿弥陀仏によって救われようという人については、親鸞聖人は特に自力の信を戒められました。
南無阿弥陀仏によって救われようとしていても、その南無阿弥陀仏を自分の功徳にできると思って足しにしようという自力の信(罪福信じる)は捨てて、阿弥陀仏をたのめと勧めておられます。南無阿弥陀仏を、そのまま聞いて信じる一つです。