安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏法を聞いた方がよいのでしょうか?(頂いた質問)

私自身は、縁があれば仏法を聞いてみたいというような気持ちで、火の中分けてもというような強い気持ちはありません。それでも、仏法を聞きもとめた方がよいのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、火の中分けるような大変強い聞法心や覚悟をもった人でないと聞けないというものではありません。
火中の栗を拾うとか、虎穴に入らずんば虎児を得ずという諺はありますが、私自身が大変な犠牲を払わなければ、素晴らしい結果が得られないというのは、いわゆる自業自得の道理からいうことです。
阿弥陀仏の救いは、そのような自業自得の道理に基づいた救いではありません。
今の言葉で言えば、ハイリスク・ハイリターンではないということです。

それは、阿弥陀仏が私に対してそのまま来いよと呼びかけておられる大慈悲による救いだからです。

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ(正像末和讃53・註釈版聖典P609

阿弥陀仏が、大慈悲の本願の船に乗られて生死の海に入って来られて、私にそのまま来いよ、早く乗れよと呼び続けて乗せて救って下されるということです。

山で遭難した人が、ヘリコプターで現場に向かった救助隊に助けられたというニュースを見ることがあります。先日も、救助に向かったヘリコプターが墜落したという事件がありましたが、救助する側も大変な危険を伴います。しかし、「これだけ危険なところに来たのだから、○○しなさい、そうしないと救助ヘリにのせませんよ」というような救助隊はありません。

阿弥陀仏が生死の海に入ってこられるのは、私を救うためです。救助隊がそうであるように、「○○しなさい、そうしないと大願の船には乗せませんよ」といわれる道理がありません。

すでに阿弥陀仏は過去から呼び続けられているのですから、その上に○○しなさいといわれることはありません。それほどの仰せならばと聞かせて頂くだけです。

仏法を聞いた方がいいのでしょうか?という質問は、自分が何かを犠牲にする前提での話です。物を買うとき人に相談するような気持ちだと思います。1000円の出費に見合う物だろうか?と、考えているようなものです。
阿弥陀仏は、何かを差し出せとは言われていません。どこか特定の場所に来なければ救わないともいわれていません。
ただ今、ここで救うと呼びかけられているので、ただ今救われて下さい。