安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「十劫安心との違いがわからない。結局、浄土往生間違いないって思い込もうとしてるように思う。」(やまやまやまさんのコメントより)

やまやまやま 2021-04-25 15:44:56

十劫安心との違いがわからない

結局、浄土往生間違いないって思い込もうとしてるように思う

だって、阿弥陀仏が修行されたもん、

だって、それが南無阿弥陀仏でいま届いてるんだもん、

どうしても、今救われた、という体験が必要なんじゃないかという気持ちがおきてくる。

団体では、横の道進むのに善をしないといけない

でも、できない自分が知らされる、だから念仏を一生懸命する

それでも、なにもかもできない自分である、阿弥陀仏しかタヨるものはない
で、マカセるようになる

でも、これも全部お力で、自分からは何もしてない、照らされて進まされている的な、そんな感じだった。

でも、なにかをしないといけないというのが、それを差し出して助かろうとする、から、それが間違いってのは分かる。

けども、じゃ、どうすんの?て感じ。

疑がっちゃダメだ×3
シンジるっていうことじゃなくて

疑蓋がはずれる、その瞬間があるのは、いつ来るんだろうか

Podcastから聴き始めて、こちらに来ました。
よろしくお願いします。

十劫安心との違いについて書きます。
結論から言うと、十劫安心には廃立がありません。

十劫安心とは「十劫の昔に阿弥陀仏が成仏した時、すでに衆生の往生も成就されており、これを忘れないのが信心であるとする理解」(浄土真宗辞典)のことです。

それについては、蓮如上人は御文章に書かれています。

「十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚を成りたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。しかれば向後においては、まづ当流の真実信心といふことをよくよく存知すべきなり。(御文章1帖目13通)

http://urx.red/SNr0

十劫安心について「聞いて忘れない」のが信心だと言っています。言い換えると、何も知らなかった状態から、「知った状態」になりそれを忘れないことです。ゼロに1を足して、1になりましたというような信心です。


それに対して、いくら「聞いて忘れない」でいても(知りたりといふとも)、他力信心のいわれをしらなければならないと言われています。


では、「他力信心のいはれ」とは何かについて、同じ御文章では後半にこのように書かれています。

されば信心といへるそのすがたはいかやうなることぞといへば、まづもろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命せば、如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべからず、これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。(同上)

http://urx.red/SNr0

「もろもろの雑行をさしおきて、一向に弥陀如来をたのみ」「自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命」したのが信心だと言われています。

「雑行を捨てて弥陀をたのむ」のが信心だと言われています。
言い換えると「自力を捨てて他力をたのむ」のが信心だと言われています。

もともと持っている自力を捨てたのが、他力をたのむということになります。また、他力をたのむということは、そのまま自力を捨てたということです。「自力を捨てて(廃)他力をたのむ(立)」という廃立が信心のいわれです。


自力というのは、言い換えると自力心(自力の信心)なので「自分の信じていること」です。「疑い」と言われますが、単に疑っているのではなく自分の信じていることと合わないことについての不審です。


やまやまやまさんのコメントから引用すると

どうしても、今救われた、という体験が必要なんじゃないかという気持ちがおきてくる。

ここでは「体験が必要なんじゃないか」と信じているので、体験について言及しない信心は受け入れられないという態度になります。


体験というのは、人によりますが、疑い晴れた体験はありますが、それは南無阿弥陀仏によって疑い晴れたのであって、「体験」をもって疑い晴れるたということはありません。

でも、なにかをしないといけないというのが、それを差し出して助かろうとする、から、それが間違いってのは分かる。

けども、じゃ、どうすんの?て感じ。

自分の行為の引き換えとして助かるということは無いのですが、それならばどうして助かることがあるのかという疑問だと思います。いろいろ考えて見るとやはり何かをしないことには助かるはずがないということを信じているのだと思います。
雑行を捨てると言われても、捨てるものを探してそれで助かろうとするのもまた自力なので、ある程度考えると行き詰まってしまいます。


前提として、自分の行為に対するリアクションとして阿弥陀仏が救って下さるというのを信じておられると思いますが、阿弥陀仏は私を今も助けようと働いておられるのが実際のところです。
「何かしないと助けて下さらない阿弥陀仏」という信心を捨てて、「すでに私を助けようと働いて下さっている南無阿弥陀仏」を信じて下さい。その信じるとは、南無阿弥陀仏を聞いて疑いないことです。