安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

宿善が五重の義に含まれるのは何故でしょう?(でんさんのコメント)

でんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

宿善が五重の義に含まれるのは何故でしょう?
これをもって肝要であると蓮如上人が言われてたと思いますが。
無宿善と思われてた者でも、救われたならば宿善のある者であった訳で、誰にも何が宿善なのか分からないから、有無を沙汰するなといわれてるのではありませんか?

尤も、南無阿弥陀仏を聞こうとするのは宿善の表れであると思いますが。(でんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110802/1312275511#c1312408563

宿善が五重の義に含まれるのは、五重の義の元となった御文に含まれているからです。

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。(御文章2帖目11通・五重の義

ここで、文末に「とみえたり」と書かれてあります。過去の文章にそのように書かれてるということです。
蓮如上人が五重の義を書かれるにあたって、参考にされたと言われている文章は、覚如上人の「口伝鈔」です*1。そのなかに「宿善、善知識、光明、信心、名号」が出てきます。

口伝鈔の「光明名号因縁のこと」では、

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、(口伝鈔2・浄土真宗聖典(註釈版)P874

と始まり、順番に宿善、善知識、光明、名号、信心と出てきます。

この文章は、十方衆生を相手に建てられた本願であるのに、救われている人(信受する機)と救われていない人(信受せざる機)がいるのはなぜなのか?ということについて書かれています。

口伝鈔には、その後に宿善のある人が、仏法を聞こうという心になり善知識にあい、光明、名号のお働きにより信心を得るのだと言われています。

しかし、「だから宿善が大事だから、善をせよ」ということは覚如上人は言われていません。

上記の口伝鈔で、結論として書かれているのは、善導大師の往生礼讃のお言葉です。

また光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「以光明名号摂化十方 但使信心求念」とものたまへり。
しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。(口伝鈔2・浄土真宗聖典(註釈版)P875

光明名号が全ての人を救っていかれるのであり、信心も名号と光明の因縁によって恵まれるのだと善導大師は往生礼讃に言われています。
浄土往生する因は信心であること。そして、その信心が定まるのは私たちの智恵の働きによるのではなく、光明のお育てにより、名号を疑い無く聞くことなのだと言われています。これを他力と言われています。

この口伝鈔では結論として、光明と名号の因縁によって、信心獲得の身に救われるのであり、その信心が因となって報土往生するのだといわれています。私がこれだけの善根を積み重ねたから救われるとはいわれていません。

上記の口伝鈔を元に書かれたのが五重の義です。その五重の義は、元々当時の異安心である、「十劫安心」「善知識だのみ」の誤りを正すために書かれたものです。

「十劫安心」は、十劫の昔に阿弥陀仏が本願成就されたときに往生は定まっているのだという異安心で、

その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして(御文章2帖目11通)

と書かれているように、信心ということを問題にしません。

また、「善知識だのみ」については

たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし(御文章2帖目11通)

と書かれているように、善知識が「因」となって救われるという異安心です。

それらに対して、信心正因を明らかにするために書かれたのが五重の義の御文章です。

ですから、「宿善、善知識、光明、信心、名号」とあっても、往生の「因」はあくまでも信心です。「宿善」が「因」では、宿善往生となり、「善知識」が「因」では「善知識だのみ」になってしまいます。
信心を「因」として、他の「宿善、善知識、光明」は「縁」として説明されています。ただ、先ほどの口伝鈔のお言葉の結論にもありますが、「宿善、善知識、光明」といっても、すべて光明名号のお働きであり、一言で言えば名号のお働きであるということです。
五重の義でいわれる、最後の名号は、称名念仏のことで、信心を正因とするから称名念仏は報恩となることを教えられています。

五重の義で顕されたのは「宿善が大事」ではなく、「信心正因」です。

「無宿善の者でも救われる」と法然上人が仰った場合の「宿善」は、「過去の善根」という意味です。
しかしここで、蓮如上人がいわれる「宿善」は、仏法を聞こうという心であり、それを発して下さった光明のお育てのことをいわれています。
御一代記聞書に「宿善有り難し」といわれるのも、蓮如上人は、この宿善は阿弥陀仏から賜るものであって、自らの善根功徳ではないといわれていることが分かります。

五重の義や、宿善については、下記の参考リンク先に詳しく書かれていますので、一度ご覧下さい。

*1:他には、存覚上人の「浄土見聞集」、覚如上人の「執持鈔」