安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 松澤祐然述「1.弥陀はお助け商売なり」

今回は、大正7年に発行された「以名摂物録(松澤祐然著)」を紹介します。
上記は、大正7年に発行された説教本です。その内容が大変有り難かったので、順番に公開したいと思います。著作権は既に切れているのでそのまま掲載します。


以名摂物録 前編 松澤祐然述 

讚題

御文章4帖目14通
 一流安心の体といふ事。
 南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)といへり。まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。
さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。あなかしこ、あなかしこ。
  [明応七年四月 日]

1 弥陀はお助け商売なり

 何処へ行ってもカラスの鳴き声の変わらぬ如く浄土真宗の御化導はいづくの人がお話しを致しても、別の話があるのではない。十劫正覚の暁より、血の滴る声で呼んで下さる大悲招喚の御六字をお取り次ぎ申すより外はありません。よってただ今讚題に供えた4帖目14通一流安心の体ということ、南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし、と仰せられた御文の御意に基づいてこれよりお話しを致してみましょう。


 全体浄土真宗の信心安心というは、いと難しいものでありましょうか、または容易いものでありましょうか。蓮如上人から承ってみると、「あら心得やすの安心や、またあらゆきやすの浄土や」と仰せられてあるからは、誠に容易いことのように思われますが、しかし「信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくして人無し」と聞いてみると、あまり易くは頂けぬものと見える。なぜに心得やすい安心が、そのように頂く人がまれであるかというに、第一は聞かせる人の不用意もあるでしょうし、又聞く人の門違いから起こることかとも思われますから、語る私も聞く皆様も何卒誠心誠意に他力易行の御法を味わって頂きたいことであります。


 そこで私は、ただ今思い切ったお話しを一つして見たいのでありますが、それは何であるかというに世間一般の人々は信心を頂くつもり、信心を頂かせるつもりで聞く人も説く人もここを先途とお骨を折ってござるようにみえますが、大体においてそれは間違いのない話かも知らねども、ある意味において大いなる間違いがここら辺りに起こってはおるまいかと考えられるのであります。その訳は、まづ壇上にお立ちかかりの阿弥陀如来様は、五劫永劫のご苦労で為衆開法蔵と浄土の店を十劫の昔に開いて下されたは、皆様にご信心というものを与えてやりたいの安心をとらせていのという、浮いた話では無かったはず。何がためじゃと尋ねて見れば、「ただ我ら一切衆生を、あながちに、たすけたまはんがための方便に阿弥陀如来ご心労ありて」と仰せられてあれば、助かるまじきこの私を助けずばおかんと仰せられてあれば、助かるまじきこの私を助けずばおかんが弥陀の本願。助けてやろうがあなたの御相。お助けより外にお商売のない如来様でありてみれば、極楽浄土の店飾りは御助け専門の営業所とでも申そうか。


つまり阿弥陀如来は、信心屋ではありません。お助け屋と屋号をつけてよろしいので。本店が極楽で、支店がこの御堂。いかにも妙な商売もあったもので、米屋、酒屋、呉服屋、お助け屋。

お助け屋などというお商売は、阿弥陀如来に限るお商売であるが、そのかわりお助け商売と看板出した上はいかなる悪人でも女人でも助けて下さるるので、しかも助け損なうような間違いの無い、大丈夫のお助け屋であります。


しかるにそのお助け専売所の支店たるこの御堂へ、御出で下されたお客様のあなた方が、取り急いでお助けを頂いて下さらずして信心が取りたいの、安心が欲しいの、と望んでござってはあたかも米屋の店へ反物買いに来たような形で大間違いのことであります。そこで今日お集まりのお方のうちに、お助けに目を付けず先ず信心がとりたいと思ってござるお客様がありましたら、そのお客様に早速お帰りを願いたいので。店が違いますよ。信心屋ではありません。お助け屋であります。私はそのお助け屋の手代ですからお助けならお取り次ぎをしましょうが、心の商いは致しません。信心などは、どうでもよいが先ず助けて頂きたいというお望みのお方は真にこの座の正客であります。

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以名摂物録(松澤祐然述)「2 お助けを貰ったが信心なり」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

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以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録