安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

利井鮮妙和上末期の言葉「たとえ私が臨終目出度くあっても、往生は臨終の善悪に依って定まるのじゃない。平生の信心決定の有無によるのだから、信の有無に意をつけよ」

最近、利井鮮妙和上の法話録「大信嘆釈法話」を読みました。その、巻末の付録が大変有り難いものだったので、エントリーに抜き書きします。

※鮮妙和上は大正3年1月1日午前3時20分にお亡くなりになっています。

病床日記
P27
大正2年12月30日
大和上は左右の人をお祓いになり、安満忠子(あまかずこ)を枕頭に呼び寄せて仰せらるるよう、多くの人は私の臨終が目出度くあろうと思っていよう。私も目出度く往生を遂げたいと思わぬではないが、宿業の催しで如何な臨終をするやら分からぬ。自らはさぞ苦しんで死ぬることであろうと思う。どれほど苦しんで死ぬとも往生は必ず佛の願力に依って遂げさせて頂く、から少しも心配してくれるな。
もし私が臨終目出度くあったら、ひょっとして同行が臨終の善いことに目を付けて往生の正因たる平生業成の信心を疎かにするかも知れぬから、お前は後で同行衆に言うてくれ。たとえ私が臨終目出度くあっても、往生は臨終の善悪に依って定まるのじゃない。平生の信心決定の有無によるのだから、信の有無に意をつけよと懇々仰せられた。

付録:葬儀日記

P28
大和上はかつて私にお話下されたことがある。佛にも三業功徳があるが、今日の我らにも三業説法がある。即ち身の説法、口の説法、意の説法である。この中、口が下等、身が中等、心が上等で有る。口ばかりの説法は駄目じゃぞ。せめて相なりとも口と相応するようにせねばならぬと仰せられたことが有りました。
(略)
また同行というものは少し法を聴聞すると自惚れて聞かせたがるものであるが、それは甚だよくない。直ぐに自讃毀他することになる、と仰せられたことが有ります。私もこれを同行ばかりではない僧分といえでも自督を述べる外に説教と言うことはないから、聞かせごころになって自讃毀他してはならぬと常に中止しております。


P31
また大和上は学問と御領解が別であるようではだめだ、御領解のごとき学問にならねばならぬ。真宗の学問は即ち領解であると仰せられたことがあります。

P33
私は大和上より、千人の智者に褒めらるるよりも一人の愚者に信ぜられるように、よその人に信ぜらるるよりも家の人に信ぜられよと仰せられたるを承りて、どうか左様にしたいものであると今日まで心がけてきました。

一つ一つが本当にその通りと思いました。
なむあみだぶつ なむあみだぶつ