安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定したら孤独は感じなくなるのでしょうか?」(頂いた質問)

「信心決定したら孤独は感じなくなるのでしょうか?」(頂いた質問)

結論から言えば、信心決定しても孤独は感じます。なぜなら信心決定とは、阿弥陀仏のただ今助けるの仰せを聞いて疑い無いことです。そして、煩悩は増えることも減ることもありません。煩悩がなくなるわけではないからには、孤独も感じ、寂しいと思ったり、腹も立てます。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。 (一念多念証文)

http://goo.gl/SNVoA3

一念多念証文にあるようにそのような有り様は、臨終の一念までかわりません。

お尋ねされた方も、孤独を感じておられからこそこのような疑問を持たれたのだとおもいます。事実として、この人生とは孤独であり、寂しいことや悲しいことがいろいろとやって来ます。それは、信心決定していようといまいと変わりません。


しかし、阿弥陀仏に救われると変わるところもあります。救われるまでの孤独や悲しみには底がありません。「悲しみの果てに 何があるなんて 俺は知らない 見たこともない」と歌にも歌われている状態です。(エレファントカシマシ『悲しみの果て』より)孤独や悲しみの果てが見えないところに、苦しみの大きな原因があります。しかし、どれだけ孤独や悲しみがあっても、南無阿弥陀仏の仰せが底となって、ただ今救うの仰せがあるという点は私をそれ以上落とすことはありません。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃_天親讚)

http://goo.gl/9t4K0B

本願力にあったならば、むなしく過ぎていく人生とはなりません。必ず浄土に往生させると、常に働きかけ捨てられないのが南無阿弥陀仏です。私がどれだけ孤独を感じていても常に喚びかけられる南無阿弥陀仏の仰せを聞いてただ今救われて下さい。


最後に最近コメント欄に頂いた歌を紹介します。

おすぎ 2014/03/23 09:22
さみしさも 苦も悲もあれど 弥陀様の ふところの中 夢のできごと。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140322/1395431847#c1395534159

参照:エントリーで紹介した歌