安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「妙好人にはやくなりたいのです」(ここさんのコメントより)→妙好人になりたいと念仏者になりたいは同じか違うか?

ここさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。ブログエントリーが遅れており、他の方のコメントもすでに書かれた後ですが、私からも一言書かせていただきます。

ここ 2013/11/25 23:59
妙好人にはやくなりたいのです、何をすればいいのでしょうか。どういう心で生きればいいのでしょうか。どなたか教えてください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131105/1383632010#c1385391581

妙好人とは、念仏者を褒める言葉の一つです。ここでいう念仏者とは、文字通り念仏する人のことであり、信心獲得の行者のことです。どうすれば、そうなれるのか?については、コメント欄に他の方が書かれた通りですが、ここさんのコメントで少し気になるところがありました。


それは、「妙好人にはやくなりたい」とのことですが、「念仏者」や「早く救われたい」「信心獲得したい」などの他の表現はいろいろとあると思います。そのなかで、なぜ「妙好人」になりたいといわれたのでしょうか?


妙好人という言葉から想像するのは、今日でも名前が残っている浅原才市さんや、因幡の源左さんのような、多くの人から「あの人は有り難い念仏者だ」と言われるような人格者イメージがあります。誰にも褒められず、名前も知られないままこの一生を終わる念仏者はそれこそたくさんおられます。


今日「妙好人」と呼ばれる人たちは、「妙好人」になりたかったのではなく浄土往生を遂げたいと願った人たちです。もちろん、法をきくきっかけは人によりまちまちです。しかし、一度法にあい阿弥陀仏の本願を聞くようになれば、「お前を浄土に往生させ、仏にするぞ」と誓われた本願を聞いたと思います。


阿弥陀仏の本願は「お前を妙好人にするぞ」ではありません。「汝一心正念にして直ちに来れ」が、阿弥陀仏の仰せです。仰せを聞くより他にありませんが、聞いた上でその念仏者を「妙好人」とか「上上人」と褒められるのであって、「妙好人になれ」という教えはありません。言葉を変えれば、ここさんは人から褒められたいのか、それとも浄土往生を遂げたいのかどちらなのかが、このコメントからはよく判りませんでした。


ただ、私の考えすぎかもしれませんので違っていたらお詫びいたします。


ここさんのコメントについての、コメント

こくう 2013/11/26 11:16

>妙好人にはやくなりたいのです、何をすればいいのでしょうか。

ただ念仏

「念仏を主人とし、煩悩を客人とすべし」
「余事をいとなむとも、念仏申し々々これをする思いをなせ
 余事をしながら念仏するとは思うべからず」(法然上人)

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親鸞におきては ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり

また唯信はこれ この他力の信心のほかに 余のことならはずとなり

弥陀の本願には 老少善悪のひとをえらばれず ただ信心を要とすとしるべし そのゆゑは 罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします
しかれば本願を信ぜんには 他の善も要にあらず 念仏にまさるべき善なきゆゑに
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々

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信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし

弥陀の名號となへつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもひあり



>どういう心で生きればいいのでしょうか。

どういう ←みな捨てもの

「一向の信をいたして その門にいる人 きわめてあありがたし・・・まことしく往生浄土のねがい 深きこころをもっぱらにする人 ありがたきゆえか」(法然上人)

浄土門は易行ゆえ、「何をすれば」「どういう心」等で難しいものを準備する必要なし。
往生のこころざしに尽きるが、これが起こり難し。

たかぼーたかぼー 2013/11/26 13:31 ここさん
阿弥陀如来が仏としてあなたにどのような願いを今もかけ続けているのか、を聴聞して下さい。そして、念仏はその如来の願いがあなたに届いているものだと聞き受けて下さい。

ここ
2013/11/27 02:52 ありがとうございます。そうします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131105/1383632010#c1385432160