前日のエントリー*1で紹介した利井鮮妙和上の法話録「大信嘆釈法話」より、一つ紹介します。
「利他深広の信楽」の「利他」についての部分を紹介します。
そこで思案の頂上は五劫思惟に過ぎたものはない、これに同心すれば仏になることが出来るのぢゃ。同心とて別の事ではない。助けたまうをハイと信順するばかりであります。
衆生の方から何一つも添えものはいりませぬ。そんならば我らが信心を頂くも宿善にかぎれりとあれば外のことはいらぬとも宿善だけは我々の方から添えねばななぬかと申すに、それもいらぬ。よって御開山様は遇獲行信遠慶宿縁(たまたま行信をえば遠く宿縁をよろこべ)と仰せられて、御文章にはたまたま信心をうれば遠く宿縁をよろこべとお示しなされて宿善も我らの機の方からするのではないこととをお示し下されたのであります。
故に御一代記聞書には宿善目出度いというべからず宿善ありがたしというべしとも仰せられてある。幾世幾世の御念力のお育てついに往生一定と頂かしてもらえば宿善とて我が力にはなかりけり仏智他力のさづけによりて本願のいはれを存知せしめて貰ったのであります。これが利他の御意。
阿弥陀仏の救いに対して、私の方から何一つも添えものはいりません。助けたまうをハイと信順するばかりであります。ただ今救う本願にただ今救われて下さい。
追記 2012/07/11 16:44
利井鮮妙和上の法話について、他のブログにも紹介されてあったので、リンクを張ります。
利井鮮妙 八万法蔵章法話 - ポルフィの日記