安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「26 仮の称名と真実の称名」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

26 仮の称名と真実の称名

 次に第四第五の不審というは、裏と表になるので。もしたのむ一念に、往生が定まってしまって、称うる行は後念にして。この称えたところで、助かるのでないとして見れば。衆生称念必得往生と仰せられ、又は称うるものを迎えとるという御勧めは、ウソなのであろうか。是が第四の不審。
 
 
 若しも称うるばかりで迎えとるの仰せが、ウソでないならば。蓮如上人が、ただ称えては助からざるなりと仰せられたは。余りに御勝手過ぎる御勧めではあるまいか。是が第五の不審である。


 答えて曰く、是はウソでもなければ、勝手すぎる御勧めでもない。称うるものを迎えとるというも、真実の仰せにして、ただ称えては助からざるなりとあるも、間違いのない御勧めである。かく申したら皆様は、サテモおかしい事である。称うれば助かるということと称えて助からずということは。丸で反対の御言葉ではあるまいか。夫れをどちらも真実といわれては、解らんことじゃと思し召そうが。
 
 
 抑称うるということに、二通りあることを御聞きください。是を存覚上人は。「是れ仮名にあらず、真実の称名なり」と仰せられて。仮名というはウソの念仏のこと。ウソの念仏というは、心に六字の謂れを信ぜずして、口先ばかりで称うる念仏を仮名という。真実の称名というは、名号六字を心に信じて称うる念仏のことである。熱いと心に感じもせずして。口先ばかりで、熱い熱いというたものなら。何程上手にいうては見ても、それはウソの熱いであるから、これを仮名という。ウソの証拠には何程熱いというても、火傷はしておらんのじゃ。
 
 
 そこで真実心に熱いと感じて、熱い熱いというものなら。欠伸まじりの熱いでも、居眠り半分の熱いでも。決してウソではないのじゃから、是を真実の称名という。真実の証拠には必ず火傷をしておるのじゃ。かくの如く称名に虚仮と真実の二つがあるとして見ると。今称うるものを助けると仰せられたは。虚仮の称名のことではない、真実の称名のことである。真実の称名ならば、既に心に名号の信ぜられ、三信具足の十念なるが故に、必得往生に疑いない。
 
 
 然るに、心に六字を信ぜずして、虚仮の念仏を称えていながら。これで往生と誤っておる人のために、蓮如上人は
「名号をもつてなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり。(1−15)」
「ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。(3−3)」
と御誡めて下されたのである。


 然らば称うるものの助かるというも、ただ称えては助からぬというも、更に違っておるのではない。真実の称名なら助かることは請け合いでも、仮名というて、口先ばかりの虚仮念仏であったなら。往生できぬということは、何方にも御解りになりましたでしょう。しかしこの事は、信仰上の実際に於いて、信者ぶりしていても、称名の更に出ぬ人もあり。又念仏はしきりに称えていても、他力の信ぜられてない人もあるので。至極大事の問題であるから、追って詳しく御話し申しましょう。