安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自分の思う・思わないがあてにならないことはわかってて、それに私が悩んでいる。このことから、自分は信心決定していないのは事実と判断したのですが、それは間違いでしょうか。」(さっちゃんさんのコメントより)

さっちゃんさんよりコメントを頂きました。また、さっちゃんさんに複数の方よりコメントを頂き有り難うございました。

さっちゃん 2012/03/09 19:51
(略)
ただ今救われる、無条件の救いと言われても、「現に今救われてない事実」が余計に疑いを強めている気がします。
何も知らなくても救われない、だからと言って「仏願の生起本末」を聞いても「まあそうなんだろうけど・・・」で終わってしまう、今はそんな感じです。ですから、「ただ今救われる」も「理屈としてはそうなんだろうけど、それができない」もどかしさがあったりもします。
退会してから、「信心決定なんかあるもんかい」というスタンスでしたが、他の真宗のブログやコメント欄を読ませて頂いて、やっぱりそういう体験があるんだ、もう一度親鸞聖人の教えに耳を傾けてみようか、という思いが出てきました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120309/1331281133#c1331290296

親鸞会退会者のどれくらいかはわかりませんが、上記のコメントのように「救われることなどあるものか」と真宗の教えそのものに背を向けてしまう方があります。そこが親鸞会・高森顕徹会長の大きな罪です。なぜなら、現在会員を続けている人だけでなく、親鸞会を離れた人にまで阿弥陀仏の本願を聞かせないからです。

そこで、コメント欄で書かれていたことですが、私も「現に救われていない事実」というのが気になりました。なぜなら、目の向いている方向が阿弥陀仏(法)ではなくて、自分の心の有様(機)に集中しているからです。

さっちゃん 2012/03/09 21:41
>はてな様
今私が信心決定していないということで、しているとも思えないということです。
ですから、救われていないのは事実です。
劇的な変化があるものではないとは思いますし、自分の心で決め込んでいるのもわかりますし、でもそのはからいが捨てられないもどかしさがあるのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120309/1331281133#c1331296901

さっちゃん 2012/03/09 22:21
>はてな様
では、私がどう思おうと、今私が信心決定している可能性はあるのですか?
自分の思う・思わないがあてにならないことはわかってて、それに私が悩んでいる。このことから、自分は信心決定していないのは事実と判断したのですが、それは間違いでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120309/1331281133#c1331299295

自分の思いぶりは、信心決定と関係有りません。逆に言えば、信心決定している人でもいろいろなことを考えると言うことです。信心というのは、わたしの思いぶりではありません。本願を聞いて疑い無いこと、仏願の生起本末を聞いて疑心有ることないことです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

このご文では「本願をききて疑ふこころなき」が名号を聞くことだと言われています。また「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなき」が信心だと言われています。どちらも「何かが思えたこと」ではありません。

さっちゃんさんが「悩んでいる」といわれるのは、「何に」悩んでおられるのでしょうか?
「救われていない事実」に悩んでいるとコメントに書かれているのですが、その根拠は「思う・思わないはあてにならないけれども、それに私が悩んでいる」ことでした。

それは、やはり自分の心に何かしらの変化があるかないかということなのですが、本願を聞いて疑い無いについてはどうでしょうか?「まあそんなもんなんだろうけど…」とありましたが、もう少し詳しく書いて頂けないでしょうか?