安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「このブログを読むことによって信心決定できますでしょうか?」(さっちゃんさんのコメントより)

さっちゃんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

さっちゃん 2012/03/08 20:02
(略)
よくこのブログでは、「ただ今聞いてください」とありますが、それはまさしくこのブログを読んでいる「今」ですよね?
信心決定するには、当然聴聞に極まると言われるように、法話を聞いたり、御聖教を読んだりすることが大切なのでしょうが、現実問題として、今の自分にはここや他の真宗のブログを読むくらいしか時間がとれません。
心がけの問題、と言われればそれまでですが、このブログを熟読することは聴聞になりますか?
もっと突っ込んで言わせて頂きますと、このブログを読むことによって信心決定できますでしょうか?
こう書くと、「ブログを読む」ことが救いの条件になってしまうので間違いなのはわかるのですが・・・
適切な質問が浮かばないので少し歯がゆい気持ちですが、お答えいただきますと助かります。
よろしくお願いいたします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120308/1331197591#c1331204578

「ただ今聞いて下さい」と書いているのは、さんちゃんさんの言われるとおり「今」です。こうして、この文章を読んでいる「今この場所」のことです。

次の「このブログを読むことは聴聞になるか」については、聴聞になります。
なぜなら、仏法を聴聞するとは「仏願の生起本末を聞く」ことです。そのため、「仏願の生起本末」を法話で音声として耳で聞くのも聴聞ですし、文字に書かれたことを眼で読むのも聴聞になります。

しかし「ブログを読むことで信心決定できますか?」と聞かれますと、コメントに書かれているように「ブログを読むことが条件」になるので、答えはノーになります。
ただ、さっちゃんさんのコメントの文章からすると、「ブログを読めば助かる」の言い方は間違いだと分かっておられると思います。

そこで、さっちゃんさんのコメント全体から尋ねられることをまとめると、「仏法を聞きに行く時間もなかなか取れない自分でも阿弥陀仏に救われますか?」ということになると思います。

答えは「ただ今救われます」です。
なぜなら、仮に仏法を聞きに行く時間があったとしても、法話で話をしている人の力で助かるわけではなく、阿弥陀仏の本願力によって救われるからです。言い換えると「費やした時間」で救いが決まるのではなく、南無阿弥陀仏によって救われるからです。

コメントの文章を使うと「ブログを読む」ことで救われるのではなく、本願力によって救われるということです。例えば、このブログを読んでいる時に阿弥陀仏に救われる人があっても「このブログを読んだからだ」とは言いません。それは、自宅にいるとき救われたという人があっても、「自宅にいたから救われた」と言わないのと同じです。

大事なことは「阿弥陀仏に向き合う」「阿弥陀仏をたのむ」ことです。向き合うのは「人」や「ブログ」ではありません。助けて下さるのは阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏となってすでに呼びかけておられるのですから、私は疑い無く聞くだけです。ですから、私の側の「時間がない」「○○しかしていない」「これだけ○○した」ということは全く問題になりませんし、気にする必要はありません。

阿弥陀仏の本願をただ今聞いてただ今救われて下さい。「○○だから大丈夫だろうか?」というのは、自分で作り出した幻想で、南無阿弥陀仏の障害になる実体はありません。大丈夫だろうかという計らいは捨てて、ただ今本願を聞いて下さい。