安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「無疑心=ハッキリする」の言い方について考える

しばらく更新が滞っておりましたが、今日から再開します。
このエントリーを書く前にコメント欄で、議論されていたことについて、考えたことを書きます。

yamamoya 2012/12/22 07:31

「無疑心=ハッキリ」ではないということについては、後日別のエントリーで書きます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121212/1355257128#c1356129070

より。

他力信心のことを、親鸞聖人は無疑心といわれています。無疑心とは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑う心のないことです。

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P678)

http://goo.gl/cB4BK


ここで「聞いて疑う心が無いなら、ハッキリするはずだ」という意見があります。これについては、私は反対の立場です。こういうと、「じゃあハッキリしないのか」という話にななりますが、そうではありません。「『無疑心=ハッキリ』ではない」は、「無疑心=ハッキリしない」ではなく、そういうことじゃありませんという主張です。


どういうことかというと、「疑ふこころのなき」は、自覚上のハッキリするしないという意味ではなく、本願に対する計らいがないことです。別の言葉で言うと、自力の心の廃ったことです。
自力の心の廃ったということは、本願を聞いた上で、「私がどう思った」ということに対する計らいがないことです。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。(唯信鈔文意・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P707)

「みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず」が、「自力のこころを捨てる」ことだといわれています。


「みづからが身を・・・」は、全て阿弥陀仏の本願を聞いた上での私の計らうことを書かれたものです。「みづからが身をよしとおもふ」は、「どんな者でも助ける本願」と聞いて「私はこれだけ○○な善いことをしているから大丈夫だろう」と思うことです。「身をたのむ」は、自分のやってきた善根をあてにしてみたり、ただ今救われなくてもまだすぐには死なないだろうと命をあてにすることです。「あしきこころをかへりみる」とは、「こんな心を持ったものは助からないだろう」と自分の心を振り返り法を判断する心です。


法を聞いて、「こう思えたとか思えない」にこだわる心を捨てるというのが、自力の心を捨てたということです。それを無疑心と言われています。
阿弥陀仏の本願が私を助けてくださるということは、南無阿弥陀仏の法の上ですでに成就していることです。しかし、それを「私がハッキリする、しない」というと法を聞いてあれこれ判断する言葉を重ねるわけですからそれは間違いです。


したがって、「無疑心=ハッキリ」という言い方は、真宗の信心を表現する上でふさわしくありません。無疑心とは「あれこれ計らいないように聞く」のでもなく、「聞いてハッキリしたぞ」と思って聞くのでもありません。本願招喚の勅命を、聞いて計らうことなく、ただ聞くことです。