安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私に本願を聞く力があるのでしょうか?ないのでしょうか?(新垣真さん・はや3年さんのコメント)

新垣真さん、はや3年さんからコメントを頂きました。有難うございました。

新垣 真 2012/01/03 18:03
(略)
特に方法論はなく、やはり最後は「阿弥陀仏の本願は聞くもの、ただ今聞いて救われてください。」という結論になるのですね。
これはつまり、私に本願を聞く力があるからこその教導なのでしょうか。それとも聞く力が私にはないので、阿弥陀仏の本願力により聞かされてください。ということなのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120103/1325544092#c1325581396

「聞く力」の「聞く」がどういう意味かによって、返答は変わります。
1つは、「聞即信」の意味の場合は、私には聞く力がないとなります。
2つは、現在本願を法話で聞いている、またお聖教で目にしているという意味での聞く力の場合は、私には聞く力があります。

ブログに「本願を聞いてください」と言っているのは、1つめの意味です。
なぜ本願を聞いてくださいというのかといえば、南無阿弥陀仏に私を救う力があり、それを聞いて救われるように本願を建てられているからです。
ここで「本願を聞く」とは、「聞いて疑いない」のが「聞く」という意味ですから、信心と同義の言葉です。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P677)

http://2i1.gr.sl.pt

聞其名号の「聞」は、「本願をききて疑う心なき」ことであると言われています。また「聞」は信心をあらわすことだと言われていますので、聞即信とこれを言います。
次に「信心歓喜乃至一念」の「信心」は、「如来の御誓いをききて疑う心のなきなり」と言われています。「信心」も「聞」もともに「本願を聞きて疑う心なき」ことです。

本願を聞いてくださいといえば、本願を聞いて疑いない身になってください、救われてください、信心決定の身になってくださいということです。それは、確かに自分で出来ることではないので、早くただ今救うとよびかけられる本願にまかせる以外にありません。

はや3年さんのコメントも、それに関連しています。

はや3年 2012/01/03 20:11
半自力といいましょうか。
それなりに真剣に阿弥陀仏の本願に向かっていかないことには捨自帰他ということにもならないんですよね。
安心問答読んだり、皆さんからのアドバイスを受けて阿弥陀如来に対峙していくというのであれば、結局はそういうことになりませんか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120103/1325544092#c1325589096

「真剣になる」というプロセスを間に挟まねばならないということはありません。ですから、現在真剣になっていない人に「まず真剣になれ」とは言いません。ただ、現在真剣な人に「真剣になるな」とも言いません。なぜなら、ただ今救うと喚びかけられる本願だからです。
「真剣になったら救うぞ」という本願ではありません。

阿弥陀仏に向かずに、自分の真剣さなどを問題にする人に、「阿弥陀仏に向け」といえば、聞いた方は「真剣に阿弥陀仏の本願に向け」と聞こえるかもしれません。しかし、真剣さを出してくださいと言っているのではありません。阿弥陀仏の本願をただ今聞く一つです。
ただただ、聞いてくださいと言うより他はありません。助けてくださるのは阿弥陀仏なのです。誰かのアドバイスが助けてくれるのでは有りません。
ただ今救う本願が、南無阿弥陀仏だけが私を救ってくださるのですから、ただ今聞いて救われてください。