安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われる前には、何か兆しのようなものが身心におきるのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われようと思ってはいるのですが、心理的には大した変化もありません。やはり、救われる前には、何か兆しのようなものが身心におきるのでしょうか?(頂いた質問)

兆しのようなものがあらわれてから救われるという考えは間違いです。
そのような考えは、救いに段階を作り、一定のプロセスを経過してから救われるという前提に立ったものだと思います。
確かに「大変苦しい思いをした」とか「夜も眠れなかった」という方もありますが、それを「救われる前兆」と考えるのは間違いです。

なぜなら、そのような個人的経験は人によって違うものだからです。例えば、ある人が「夜も眠れなかった」と言っても、全ての人が夜も眠れない状態になるのではありません。また別の人が「辞表を提出して法話に行った」といっても、全ての人が「辞表を提出しても法話を聞きに行く気持ち」になるわけでもありません。


それらは、阿弥陀仏に救われたと言っている人が、過去にどんな気持ちであったかを振り返って言っているだけで、「こんな状態になったから救われた」という因果関係は存在しません。阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏一つで決まるので、前兆があったからではありません。
このように関係ないことを関係づけるとは、たとえて言えば「黒猫が目の前を横切った後に、交通事故に遭った。黒猫が目の前を通ったのが悪いことがおきる前兆だったんだ」と言っているのと同じです。

仮に、「夜も眠れなくなろう」と頑張っても、なかなかなれるものではありません。特にいつも体が疲れている熱心な親鸞会会員ならなおさらです。こんな心になろうと思ってもなれないのが人間ですから、私の心の善し悪しをみて、救われるだろうか、まだだろうかと考えるのは全く意味のないことです。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。(口伝鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P878)

http://goo.gl/0dEUB

口伝鈔にも書かれている通りです。
質問に「兆し」といわれるのは、「夜も眠れない」などの「求道者らしい心」のことだと思います。それを「往生の得」になると考えての質問ですが、心の善し悪しは「往生の得ともならず失ともならざる」ですから関係ありません。
「弥陀の仏智」をたのみにする以外に、凡夫が往生するということはありません。

ですから、阿弥陀仏の本願をただ今聞く以外に、自分の心が善くなるように努めるのも、悪いからと言って心配するのも間違いです。
信心と言っても本願を聞いて疑い無い以外になにもありません。特別な体験や前兆は、南無阿弥陀仏の中にはありません。ただ今救う本願をただ今聞いて救われて下さい。