安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。」(蓮如上人御一代記聞書)について解説して下さい(若王子さんのコメントより)

若王子さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

若王子 2013/04/28 22:17
「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。」
『蓮如上人御一代記聞書」(『真宗聖典』 p.874)

上記のお言葉について詳しくご解説願います。山も山さん、よろしくお願い致します。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130428/1367101575#c1367155050

仏法には明日と申すことあるまじく候ふ。(御一代記聞書_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版(102)P1264

http://goo.gl/tSn2y

仏法に明日はないと言われる理由は、二つに分けていうことができます。
一つは、阿弥陀仏の本願はただ今の救いである
二つは、阿弥陀仏の本願を聞く私の命といっても今しかない(明日の保証はない)

1.阿弥陀仏の本願はただ今の救い

阿弥陀仏の本願は、ただ今の救いです。明日救うという本願ではありません。そのため、その本願をそのまま聞くということは、阿弥陀仏が「ただ今救う」と誓われた本願を、文字通りそのまま「ただ今救われる」と聞くということです。


では、なぜ阿弥陀仏はただ今救うと誓われ、それを聞いた私がただ今救われるのかといえば、それは私の力を必要としない救いだからです。自分の力では、浄土往生も生死を離れることもできない私を憐れに思われた阿弥陀仏は、どんなものでも等しく助ける為に、救いに「○○ができたら」という条件を設けられませんでした。仮に、「○回聴聞しなければ」「真剣に聞かねば」「親孝行してなければ」「善をしてなければ」「こんな悪人は」と条件を付けたら、そうでない人は阿弥陀仏の救いから漏れてしまいます。


阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となられてそれを疑い無く聞いて(信じて)称えるものは浄土に生まれさせるという本願を建てられました。南無阿弥陀仏を聞く一つでありますから、阿弥陀仏の救いに「○○してから」という時間はかかりません。そこで、蓮如上人は御文章に阿弥陀仏の救いを「平生業成」と言われています。

わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなはち平生業成の義なり。されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり。(御文章1帖目4通_自問自答)

http://goo.gl/n8yjm

平生業成とは、「わがちからにてはなかりけり」ですから、「私の力、行為」によってなることではありません。では何によるのかといえば「仏智他力のさづけによりて」です。阿弥陀仏が、南無阿弥陀仏と私に喚びかけてくださるからです。それによって「本願の由来を存知する」とは、仏願の生起本末を聞いて疑い無いことであり、南無阿弥陀仏のすがたをこころえることです。


よって、平生業成とは、私の力を必要とせず、阿弥陀仏の本願力によりさし向けられる南無阿弥陀仏によって、本願のいわれを聞き開いて、往生治定(浄土往生が定まる)となることをいいます。


このような話を聞いても
「でも、そこまで進むには時間がかかるのでしょう?」と質問されることがあります。
しかし、この問いは今まで書いたことと合わないので、実は問いとしてなりたちません。


なぜなら「平生業成」は、ただ今「ここ」で救われるという意味だからです。問いを立てた人は「そこまで進む」と言われています。「そこまで行った先」で救われる前提の話ですから「平生」ではなくなっています。ただ今「ここ」で救われる話に対して、「今ではないどこかに進んだ先」の話をされても問いにはならないのです。


たとえば、若王子さんがこの文章を読まれている今、読まれている場所で阿弥陀仏に救われるというのが、平生業成です。
ですから「仏法には明日ということはない」阿弥陀仏の救いに「明日」ということは絶対にありません。

2.阿弥陀仏の本願を聞く私の命といっても今しかない(明日の保証はない)

阿弥陀仏はただ今救うと言われている、この私はまた「ただ今」にしか生きていません。過去といってもそれは過ぎ去った時間ですから、そこに行こうとしても私はそこに行くことはできません。未来といっても、未だ来ていないわけですからそこに行くこともできません。それに、明日といってもカレンダー上の明日という日に生きている保証はありません。


阿弥陀仏に救われることを、「ただ今」ではない「いつか」、「ここ」ではない「どこか」にしてしまって、「今日はだめだたけど、明日は」とか「いつかはそこまで進もう」と思っている私は、いつまでたってもその「明日」にも「そこ」や「どこか」にはたどり着くことはありません。



仮に、「いつかどこかで救われる」と思っているなら、「ただ今ここで救われなさい」と勧められるのが、御一代記聞書の「仏法には明日と申すことあるまじく候ふ」です。

追記 2013/04/30 17:55

若王子 2013/04/30 12:39
仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。
についても補足説明いただけますか。よろしくお願いします。
解説ありがとうございました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130429/1367186101#c1367293171

仏法には明日と申すことあるまじく候ふ。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。
(御一代記聞書_浄土真宗聖典―註釈版(102)P1264

http://goo.gl/tSn2y

仏法においては、明日ということはあってはならないと言われた後に、「仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふ」とあります。意味はそのままで、仏法には明日ということはないのだから、仏法のことは急げ急げと言われたものです。

書きたいことは、上記のエントリーにすでに書いているので、これ以上は加えることはありません。