安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

質問者「歎異抄をひらく」の「親鸞には弟子一人もなしーすべて弥陀のお弟子ーといわれたもの」について教えて下さい→高森顕徹会長「弟子は師匠の指示に従え」(2012年2月26日親鸞会二千畳座談会参加者から頂いた情報より)

2012年2月26日(日)富山県射水市の親鸞会館で、高森顕徹会長の二千畳座談会が行われました。参加した方より情報を頂きましたので、気になるところを紹介します。
今回は、高森顕徹会長の著書「歎異抄をひらく」についての質疑応答でした。

今回の質問は以下のものでした。

歎異抄をひらく

歎異抄をひらく

質問:「歎異抄をひらく」P70、1行目「親鸞には弟子一人もなしーすべて弥陀のお弟子ーといわれたもの」とお書き下されています。この歎異抄第6章をとおして教えられていることは、私たち親鸞学徒はすべて弥陀のお弟子であるから、ともに弥陀のご恩を心にかけて聞法、顕正、信心の沙汰をしていけばよい、ということでしょうか?お聞きしたいと思います。(2月26日二千畳座談会の質問)

質問についての回答は、一言で言えば「救われたら分かる」でした。それまでの教義的な話の大半は、「親鸞会的」三願転入でした。その内容の間違いについては、すでに飛雲に書かれています。*1


今回の話で特に気になったのは、「弟子は師匠の指示に従う」の強調でした。以前のエントリーで、高森会長の話は「意味の伝達」よりも「意図の強制」であると書きましたが、今回の内容はまさにそれにあたるものでした。

どんな「意図の強制」をしていたかについて、一言で言えば「弟子(講師部、会員)は、師匠(会長)の指示に従え、ロボットになれ」でした。

どれくらいそれを強調し、くり返していたのかについて、頂いた情報よりその部分を抜粋して如何に引用します。

「弟子はかくあるべし」と強調する高森顕徹会長(座談会中の高森会長の発言より抜粋)

※以下「 」は、高森顕徹会長の発言

「弟子というのはどんなものかな?」
「仏教では師と弟子の関係は非常にハッキリしておる。今日でも厳しいんですね。絶対にいい加減にはしないんですね。弟子は師の教えを聞いて、その教えに信順し、そしてその指示に従って求め動くと、これは絶対的なものであったんですね。」
「師の言われたことに絶対服従するのが弟子。」
「弟子である限りはその指示に従い、求め動かなければならない。これが仏教の伝統です。」
「師の指示に従う指示に従う。先生はいうけど、そんなことしたくないです。そんなのは弟子とは言わない。」
「命じられることに信順する」
「先生はそう言われるけれど、私はどうも納得できない。そんなのは弟子でない。先生がカラスの頭は白いものだといわれても、はい、その通りですといわないと弟子でない。また、指示の通りに従わなければならない。そして動く。それが弟子です。仏教では特にそれが厳しいんですね」
「親鸞聖人は、こういう教えに信順し、指示に従い、行動している弟子は1人もいないということになる」
「弟子というのは、師匠の教えに信順し、指示で動き、行動していくもの、こういうものが弟子なんですから」
「親鸞聖人の弟子は、それでは誰の指示で動いておったのか?親鸞の指示に従っておった人ではないんだと親鸞聖人は言われる」
「弟子なら自分の言うことに従い、信順して、指示通りに従って求めたり、動いたりする。そういうものを弟子と言うんですから、ところが親鸞聖人はそんなことをした覚えがない。だから弟子と思えなかった」
「師であるならば、教えを説き、指示をして、そして求めさせる。行動させる。こういうことをやって初めて、師であり、その通り動く人は弟子ということになる。」
「親鸞聖人はある師匠の弟子となり、その教えを聞き従い求めていたと思っておられた。ところが阿弥陀仏に救われてみると、全ては阿弥陀仏のお計らいであったなと」


(休憩)
「お釈迦様は阿弥陀仏のお弟子ですから、阿弥陀仏の教えを、阿弥陀仏の指示の通りに教えておられるわけです。だから、釈迦は阿弥陀仏の、まぁわかりやすい意味で使うとロボット、十方諸仏も阿弥陀仏のロボット、阿弥陀仏によって、この弟子達が走り回っておる。阿弥陀仏の指示通りに動き回っているのが、釈迦であり、この十方諸仏なんですね。だから、阿弥陀仏の意思に反するような、思いに反するようなことは、釈迦も十方諸仏も絶対に教えておられないということです。」


上記のように、なぜこれほど「弟子は師匠の指示に従う」とくり返して言わねばならないのかと思うほど、何回も高森会長はくり返します。挙げ句の果てには「釈迦も諸仏も阿弥陀仏のロボット」と暴言を吐きます。
以上のことから、高森会長の意図は「弟子(講師部および全会員)は、師匠(会長)の指示に従うロボットである」という事がよく分かります。


その会長の「意図の強制」がどのように参加者に伝わったかは、アシスタントの発言からよく分かります。

午後の始めに、会長から「午前の話をどう聞いた?」と尋ねられた3人のアシスタントは以下のように答えます。

アシスタントA「(略)全ての人は阿弥陀仏のお計らいによって救われる(略)なぜそのようにいわれたのかは親鸞聖人ご自身の体験からです。」
アシスタントB「弟子というのは、師匠の教えに信順し、師匠の指示に従い、師匠の仰せのままに求め、行動するのが弟子です。教えにも従わない、指示にも従わない、納得できないことは従わない。これでは弟子とはいえません。仏教では特にそのことは徹底されています。(略)阿弥陀仏の教えに従い、阿弥陀仏の指示に従い、阿弥陀仏の仰せのままに行動する人ですから、それらのお弟子を、親鸞の弟子とは言われなかった。(略)なぜそのように思われたのかについては、親鸞聖人の体験であります。(略)」
アシスタントC「親鸞には弟子は1人もいない。弟子とは、師匠の教えに信順する人、指示に従う人、指示通りに行動する人が弟子である。(略)なぜそのようにいわれたのかは、親鸞聖人の体験からです。」


アシスタントが、午前の会長の話をどうきいたかをまとめると以下の2点になります。

  1. 師匠の指示に従うのが弟子
  2. なぜ親鸞聖人が「弟子一人も持たず」と言われたか?それは「救われた体験」から分かられたこと


ここから参加者(特に講師部員)がどう聞いたかがよくわかります。
言い換えると以下のようになります。

  • 講師部員は、高森会長の弟子であるから、どんな指示にも従わねばならない。納得できないとか従えませんというのは弟子ではない。カラスの頭は白いといわれても、ハイといって従って行くのが講師部員だ。
  • 救われた体験のある高森会長のいうことは、救われていない者には分からないのだから、どんな指示にも指示通りに動くぞ。


上記のような高森会長の話は過去に、何度もありました。私が親鸞会講師部員であったときの記憶によれば、高森会長が「弟子とはかくあるべし」とか「軍隊では上司の指示は絶対」などの話をするときは、決まって講師部総会や講師部合宿の前でした。
一例をあげると、週刊ダイヤモンドに掲載された「悪魔の三大契約」の話が出た講師部総会の時もそうでした。この契約についての説明が行われる直前に、高森会長主催の支部長会議がありました。その時、高森会長は「日本の軍隊では敵前逃亡は銃殺刑」「一度その軍隊に入ったら出ることは許されない。辞めるときは死ぬとき」「親鸞会講師部は、それ以上に厳しくなければならない」という話を半日以上かけてしました。その会合の後に「講師部を辞めたら1000万円の誓約書を、来月に書いて貰う」という説明がはじまるので、最初からとても断れない空気がそこにはありました。常識的に考えれば「なぜ講師部辞めたら1000万円なんて契約の話を黙って聞いているのか?」と、多くの人は考えられると思います。現在の私なら同じように思います。
しかし、今振り返ってみると、その直前に高森会長がした話が、「会長の指示に絶対従わねばならない」「講師部を辞めることを考えてはならない」空気を作っていたわけです。その空気に操られるように、その場にいた講師部員は契約の話を黙って聞いていました。これがマインドコントロールと一般にいわれるものです。


今回の二千畳座談会も、その翌日と翌々日は講師部の会合があったようです。こんな話を会長がわざわざするのですから、講師部員はますます会長への忠誠を強制させられるような会合の内容であったことは容易に想像できます。事実、私が親鸞会講師部員に在籍していた10年間に行われた講師部合宿、講師部総会の内容は「いかに高森会長の指示通りに動くか」「指示通りに動かない講師部員を指摘し、指示通りに動く講師部員にするか」以外にはありませんでした。


高森会長が「弟子(講師部員)は私の指示通りに動くロボットになれ」と自らの意図を強制し、その通り「私は会長の指示通りに動くロボットになります」と言っているのが講師部員の実体です。

そんな会長の口から、「親鸞聖人は・・・」「阿弥陀仏は・・・」といくら参加者がもっともだと思う話をしたところで、会長自身は会場の参加者に「信心決定あれかし」の気持ちはありません。


その証拠に、今回は午後の前半の終わりに高森会長は時間を勘違いして、「まだまだ言いたいことがありますが、時間が来ましたので、それについては次回のご縁で・・」と終わろうとしました。それに対して、時間がまだあることをアシスタントに教えられて休憩に入った後、高森会長が話した内容は、「財施をせよ、掃除をせよ、ヨコの線を進め、方便が不要というものは何も分かっていないコンマ以下」という、全くもって、十八願と無関係な話でした。

こんな話が高森会長の「まだだ言いたいことは山ほど有る」の内容です。どこにも、「信心決定あれかし」も、阿弥陀仏の第十八願の話もありません。


高森会長は、「私のロボットになれ」と言います。阿弥陀仏は「ただ今救う」と呼びかけられています。
親鸞会会員の方、講師部の人でもこのエントリーを読まれた方は、一度考えて見て下さい。
自分は、高森会長の話を聞いて会長のロボットになりたいのか、それとも阿弥陀仏の本願をただ今聞いてただ今救われたいのか。よくよく考えてみれば、何を聞くべきかはわかると思います。