安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会の750回忌からわかる高森顕徹会長の話を会員が続けて聞いてしまうたった一つの理由(親鸞会750回忌参加者から頂いた情報より)

今回のエントリーで書くことは、タイトルの通りです。

結論から先に書きますと、いろいろな疑問を抱えながら親鸞会会員が会長の話を続けて聞いてしまうたった一つ理由は、「高森顕徹会長の話をどれだけ真剣に聞いても分からないところがあるから」です。

「聞いても分からないところがある」という点について、私も以前親鸞会会員であったときは「自分の聞き方が悪いからだ」と思っていました。しかし、それは間違いです。このエントリーを読まれている方で、親鸞会会員の方がもしあればよく聞いて下さい。
高森顕徹会長*1の話を聞いてよく分からないところがあるのは、貴方の聞き方が悪いからではありません。高森顕徹会長は、「そもそも肝心な部分をあえて話をしていない」からです。

今回親鸞会(富山県射水市)主催の750回忌に参加された方から頂いた情報から、上記のことを紹介します。

前回のエントリーで、親鸞聖人が「寄せかけ寄せかけ帰ってくる」衆生済度をするといわれながら、「小慈小悲もなき身にて 有情利益は思うまじ」と親鸞聖人が言われたのはなぜかということころで、1日目の高森顕徹会長の話が終わったことを書きました。

それに対して、2日目は一体どういう話だったのか。頂いた情報から紹介します。
2日目は、1日目のおさらいの話が続いたあと、高森顕徹会長は発言します。

これはどうしてかということは、明日話します。いうことで昨日は終わったんです。(会場笑い)
ですから、本当は今からの話、初めから今日すれば良かったんですけど、今日始めて来られた方もあるんです。昨日どうしてもご縁がなくって、4円しかなかった、そういう方の為に、昨日話したことが今までの話です。で、これからが昨日お約束したように、この親鸞聖人の矛盾したお言葉は、どうしてなのか、どっちが本当なのか?こうなりますので、明らかにしたいと思います。(2011年10月9日午前の前半・親鸞会750回忌での高森顕徹会長の話より)

前日しか参加できなかった人もいるかも知れませんが、そんな人は放っておいて2日目から来た人を優遇します。そもそも、1日目しか参加しなかった人は何も聞けなかったということです。加えて言えば、1日目も2日目も参加している人が大半の中で、何を話しするつもりかと思います。
加えて言えば、前回のエントリーにも書きましたが、参加者「どうしたら阿弥陀仏に救われるのか」ということを聞きたくてやってきたのに、話の内容は「どうして親鸞聖人の発言に矛盾した箇所があるのか?」になっています。
ただ今臨終の人が聞きたい話でしょうか?ただ今救われたい人が聞きたい話でしょうか?

その後、二種の回向の話になり。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。 (教行信証教巻・註釈浄土真宗聖典(註釈版)P135

の御文を挙げての話になります。

二種の回向あり これ一つ教えられたのが、親鸞聖人です!(2011年10月9日午前の前半最後・親鸞会750回忌での高森顕徹会長の話より)

こう話をしながら、「二種の回向」については、ほとんど解説がありません。
以下、高森顕徹会長の話から、二種の回向についての部分を抜粋します。

この一念で、ここが決勝点、ここへ行って阿弥陀仏に救われる為に全人類は生きておるんだし、そのために政治はあるんだし…(略)前を向いて進もう、上を向いて進もう、真っ直ぐに進もうと言ったって、どっちが前かハッキリしないと崖にむかって進んでいたら崖に落ちるだけでしょう。
あこ(縦の線)に向かって進むんです。弥陀の救いに向かって全人類は進まねばならないんです。
その一念で阿弥陀仏は何を与え、助けて下されるのかというと、回向して与えてくだされるものに二つある。これが二種の回向ということ。
二種の回向有り。阿弥陀仏が私たちに下されるものに二つある。一つじゃない。二つですよ。
そして、これを頂いた人は阿弥陀仏に救われる。救われた人は、この阿弥陀仏から頂いた二つのものを皆さんに伝えなさいよ。と親鸞聖人はこのように仰っている。(2011年10月9日午前の後半・親鸞会750回忌での高森顕徹会長の話より)

往相とはなにか?還相とはなにか?まぁ時間がありませんので知りたい人は本を読んで下さい。(2011年10月9日午前の後半・親鸞会750回忌での高森顕徹会長の話より)

死んだらどうなるかわからないという重荷、それをとってもらうのが往相(2011年10月9日午前の後半・親鸞会750回忌での高森顕徹会長の話より)

阿弥陀仏は二種のものを私たちに与えて下されるんですよ。こう仰る。
一つには往相、一つには、この苦しみ悩みの人生を光明の広海に助けて下される「もの」を与えて下されるんです。死んでからじゃないんですよ。この世から助けて下されるのが往相なんですよ。
お礼も、身を粉にして骨を砕いても活躍せずにおれないのも阿弥陀様が下されるんですよ。みな阿弥陀様からの頂き物なんですよ。ということが、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。」
自分さえ助かればよい、自分さえ喜んでおればいいというようなのは、阿弥陀仏から頂き物が頂けていないんですよ。真実の信心は二種の回向ですよ。真実の信心を頂いたと言うことは、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂いたということは二つの回向を頂くと言うことですよ。これが真実の信心であり、他力の信心であり、阿弥陀仏に救われたということです。(2011年10月9日午前の後半・親鸞会750回忌での高森顕徹会長の話より)

阿弥陀仏の救いはいかに広大無辺であるか、また如来二種の回向を90年の生涯教え続けて行かれた。そしてこのように教行信証にハッキリと真実の仏教は二種の回向だよ。阿弥陀仏の救いは二種の回向だよ。一つには往相、二つには還相とそれを教行信証に書き残して、今日の私たち伝えて下された親鸞聖人は世界の光。当然なことであります。(終わり)(2011年10月9日親鸞会750回忌・高森顕徹会長の話2日目の最後より)

これを読んで分かる事は、「如来二種の回向」について、ほとんど説明をしていないということです。一度だけ最後に「南無阿弥陀仏を頂いた」と言いますが、「どうしたら頂けるのか」という説明は全くありません。

それ以前に、

この一念で、ここが決勝点、ここへ行って阿弥陀仏に救われる為に全人類は生きておるんだし、そのために政治はあるんだし…(略)前を向いて進もう、上を向いて進もう、真っ直ぐに進もうと言ったって、どっちが前かハッキリしないと崖にむかって進んでいたら崖に落ちるだけでしょう。
あこ(縦の線)に向かって進むんです。弥陀の救いに向かって全人類は進まねばならないんです。
その一念で阿弥陀仏は何を与え、助けて下されるのかというと、回向して与えてくだされるものに二つある。これが二種の回向ということ。(2011年10月9日親鸞会750回忌・高森顕徹会長の話2日目より)

から分かるように、進んでいった一念(救われるところ)で始めて阿弥陀如来は回向されるという説明をしています。
「一念まで進むには○○せよ」とのいつもの話をするために目釘を打っています。

この親鸞聖人のお言葉には続きがあるのですが、高森顕徹会長の話には全くでてきません。
本願力回向については会員は、「本願力回向」を疑っているから救われない: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~にも詳しく書かれているので読んでくさい。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教行信証教巻

往相の回向について、親鸞聖人は「真実の教行信証」ありといわれています。
また

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証行巻

と言われています。

本願力回向されるところの「教行信証」も「大行・大信」にもまったく触れません。
阿弥陀仏の本願力回向は、私をただ今救って下さる南無阿弥陀仏のお働きの姿です。
決してこの「一念まで進んだら頂ける」というようなものではありません。ただ今この場にいる私に、働いて下さる南無阿弥陀仏です。
その南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いことを信心と言われています。

どれだけ真剣に聞いても、「二種の回向」についてはほとんど解説がないまま2日目の話が終わり、親鸞会主催の750回忌の法話は終わりました。高森顕徹会長自身が、「二種の回向」についてほとんど解説もせず、しかも少しした解説も「縦の線まで進んでいったら与えられる」という間違った教えです。
これを聞いた真面目な会員は「何かよく分からない」という印象を持たれたと思います。そこから「次に聞いたら分かるかも」と思われるかもしれませんが、それこそが高森顕徹会長の狙い通りです。
3日間かけて、阿弥陀仏の本願を全く伝えない人の話を聞くことがどれだけ無意味かよく考えて見て下さい。

2日目の高森顕徹会長の話についてそれ以外に思ったことや、3日目の座談会の内容については、次回のエントリーで書きます。

参照先 親鸞会公式サイトより

親鸞聖人750回忌(2日目)|浄土真宗 親鸞会

*1:高森顕徹会長とあえて書くのは、1万年堂発行の本の読者で何も知らない人に親鸞会の実体を知って頂くようにという考えによるものです。少し冗長になりますがご容赦下さい