安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「歎異抄をひらく」についてのテレビ座談会が、「歎異抄」ではなく「歎異抄をひらく」を自画自賛する会になっている件(頂いた情報より)

4月17日に開催された、親鸞会のテレビ座談会の内容について詳しい情報を頂きました。
高森会長の著書「歎異抄をひらく」についての質疑応答という内容です。

私が親鸞会在籍時にはなかった行事です。そのためどんな内容かはあまり詳しく知りませんでした。参加された方から頂いた情報によると、タイトルにもあるように「歎異抄」ではなく「歎異抄をひらく」がいかに他の歎異抄解説書よりすぐれているかを会長が自画自賛し、アシスタントがまたそれを繰り返して話すという内容でした。

以下、頂いた情報より抜粋

1つ目の会員からの質問
「歎異抄をひらく」の P185 前から7行目「あんなに長らく親鸞聖人の教えを聞いてきた人たちに、いまさら「念仏は極楽の因か地獄の業か」と聞かれて、これより適切な表現が、ほかにあったであろうか。」
という部分について、親鸞聖人から直接教えを20年間も教えをお聞きし、聖人一人をお慕いしてきた人たちが、念仏は極楽の種か地獄の業かという疑問が生じたのでしょうか?」
(略)
(午前中は、歎異抄2章の背景の話が続き、「歎異抄をひらく」 P185 「そんなことは親鸞知らぬ」についての解説が続く。ちなみにこの部分は質問者が聞いていない部分です。午前中が終わり午後も同様の「親鸞知らぬ」の話が続く。)
会長:この「知らぬ」は知りすぎた知らん、怒りから出てくる。
正法を護ろうという、正法を護ろうとするものには当然出てくる。そういうことをここで書いている。それで、そこはそれでいいですか?

司会者「・・、質問は(その後の部分です、と言おうとする)」
会長「一つの質問でしょう」
司会者「・・・質問された方どうでしょうか?」
質問者「・・・はい、わかりました」

そもそも質問に答えず、「親鸞知らぬ」と言われたことは、知りすぎた知らんであり、そんなことを書いた歎異抄解説書はどこにもないと繰り返しいうような内容でした。。

法話と言うのは、阿弥陀仏の本願を聞かせて頂く場であり、阿弥陀仏の御心を聞かせて頂く場です。また、親鸞聖人の書かれたお聖教のお言葉を通して、阿弥陀仏の本願を聞かせて頂く場です。

親鸞聖人の教えではなく、会長の考えや、会長はこの本のこの部分についてなぜ書かれたかを聞く集まりが、テレビ座談会なのだとよく分かりました。

テレビ座談会に参加された方は、人の考えを聞くのではなく、阿弥陀仏の本願をただちに聞いて阿弥陀仏に救われて頂きたいと思います。