安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聴聞をするときの心がけはありますか。例え話にはよくわかるのですが、自分の問題にならずにいます。(名無しさんのコメントより)

親鸞会ブログポータル・ナビにコメントを頂きました。気がつくのが遅くなり申し訳ございませんでした。

聴聞をするときの心がけはありますか。例え話にはよくわかるのですが、自分の問題にならずにいます。
名無しさん|[問答]信心決定する前兆がないとすれば、いつ救われるのでしょうか?(頂いた質問)|2012-02-18

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聴聞するときの心がけは、特別有りません。なぜなら、特別これを心がけていればよいというものがあれば「助かる手段」が私の方にあるということになってしまうからです。


しかし、そう聞くと「ただ同じようにどんな話も聞いておればよいのか?」と疑問に思われると思います。そこで強いて言えば、仏願の生起本末をそのまま聞くことです。御一代記聞書にはこのように書かれています。

(51)
一 法敬申され候ふ。讃嘆のときなにもおなじやうにきかで、聴聞はかどをきけと申され候ふ。詮あるところをきけとなり。(御一代記聞書)

これは、法敬房が言われたこととして書かれたものです。その内容は、全部同じように聞くのではなく、聴聞は大事なところを聞きなさいといわれたものです。


大事なところと言うのは、仏願の生起本末です。阿弥陀仏がなぜ本願を建てて下さり、その結果私をどのように救って下さるのかという南無阿弥陀仏の謂われを聞くことが大事なところです。「因果の道理」や「人間の実相」を特に真剣に聞けという話ではありません。


ただ、質問のコメントに「自分の問題にならずにいます」というのは、仏願の生起本末を聞いても他人事のように思えてしまうと言うことでしょうか?
それとも、「夜も眠れないような追い詰められた気持ちにならない」ということでしょうか?

どちらも「我が事となったらもっと真剣になるはずだ」とか「こんなのんびりとはしていない筈だ」という私の心の変化を問題にされてのことだと思います。
たとえ、名無しさんの現在の心境がどうであれ、必ずただ今救うと呼びかけておられるのが南無阿弥陀仏です。
「ただ今救うぞ。ただし、真剣になったら」とか「ただ今救うぞ、ただし夜も眠れなくなったら」という条件付きの呼びかけではありません。私の「心境」が問題なのではありません。「自分の問題になっていないものは救って下さらないのではないか」という計らいが問題です。


名無しさんの言われる「自分の問題」がどういうものかは分かりませんが、「○○にならねば」と自ら阿弥陀仏の本願を遠ざけてはなりません。なぜなら、阿弥陀仏は「ただ今救う。そのまま救う」の本願を建てられました。それをそのまま聞くのが、仏願の生起本末をそのまま聞くと言うことです。必ずただ今救われます。