安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

高森顕徹会長(浄土真宗親鸞会)の「弟子は師匠の指示に従うロボット」発言は、どこまで本当か?根拠をあげて考える。

前回のエントリーに複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。
おすぎさんのコメントに

おすぎ 2012/03/02 20:34
やっぱり 根拠の無い話をしてますよね。(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120302/1330674347#c1330688086

とありましたが、その通りです。真宗において「弟子は師匠の指示に従うロボットだ」という根拠はどこにもありません。高森顕徹会長は、根拠を出さずに「落語の世界では、弟子入りしたものはこうだ」とか「相撲部屋に入門した新弟子はこうだ」と、真宗と関係ない師弟関係の例をあげ、「仏教では師弟関係が厳しいんです」と言葉を重ねることで、あたかも親鸞聖人が「弟子とは師匠の指示に従うロボット」と言ったかのように、参加者に思い込ませています。

そこで、今回は親鸞聖人が「真仏弟子」について教えられた根拠をあげて、如何に親鸞聖人のいわれる「真仏弟子」と、高森会長のいう「弟子」の定義が違うかについて書きます。


「真仏弟子」について、親鸞聖人は教行信証信巻末「真仏弟子釈」に以下のように言われています。

【84】 真の仏弟子(散善義 四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。(教行信証信巻末・浄土真宗聖典(註釈版)P256)

http://goo.gl/BBL4Z

ここで、真の仏弟子とは、「偽の仏弟子」「仮の仏弟子」に対する言葉であるといわれています。そして、弟子とは釈迦諸仏の弟子であり、阿弥陀仏に救われた人のことだと言われています。阿弥陀仏の第十八願の信心と念仏により必ず仏のさとりをひらくから、真の仏弟子というといわれています。
高森会長は「歎異抄をひらく」では、「すべて弥陀のお弟子」と書いていますが、親鸞聖人は「釈迦諸仏の弟子」と言われています。なぜ、「釈迦諸仏の弟子」と言われるかというと、直接私に「教え」を説かれる方は、お釈迦様だからです。この私が住んでいる世界以外では、諸仏が教えられるからです。

一言でいうと、「阿弥陀仏の本願に救われた人が真の仏弟子だ」といわれてます。
そうでない人は「偽の仏弟子」「仮の仏弟子」といわれています。

そこで「偽の仏弟子」「仮の仏弟子」とは、どんな人かというと、真仏弟子釈の続きに書かれています。

偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。(教行信証信巻末・浄土真宗聖典(註釈版)P265)

http://goo.gl/ebdix

仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。(同上)

ここで、「偽の仏弟子」とは、仏教以外の宗教を信じている人であり、「仮の仏弟子」とは、聖道仏教の人と、浄土仏教でも修善や自力念仏に励んでいる人のことを言われています。

では、なぜそれらの人達は「真の仏弟子」ではなく「偽」「仮」なのでしょうか?それについて、真の仏弟子について愚禿鈔にいわれた親鸞聖人のお言葉を紹介します。

【54】 第五の「唯信仏語」について、三遣・三随順・三是名あり。
三遣とは、
一には、「仏の捨て遣めたまふをば、すなはち捨つ」と。
二には、「仏の行ぜ遣めたまふをば、すなはち行ず」と。
三には、「仏の去ら遣めたまふ処をば、すなはち去る」となり。
三随順とは、
一には、「是を仏教に随順すと名づく」と。
二には、「仏意に随順す」と。
三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり。
三是名とは、
一には、「是を真仏弟子と名づく」となり。
上の是名とこれと合して三是名なり。(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P523)

http://goo.gl/2rXuM

これは、最初にあげた散善義のお言葉を言われたものです。
この「三遣」「三随順」する人を、真の仏弟子と名づけるといわれています。それに対して、「偽」「仮」の仏弟子は、「三遣」「三随順」していないので、真の仏弟子とはいわないのです。


この三遣、三随順について簡単に説明します。
「仏の捨て遣めたまふをば、すなはち捨つ」とは、自力を捨てることです。
「仏の行ぜ遣めたまふをば、すなはち行ず」とは、念仏を行ずることです。
「仏の去ら遣めたまふ処をば、すなはち去る」とは、雑縁などに近づかないことです。
これは皆、お釈迦様の教えです。釈迦の発遣の内容を、三つに分けていわれています。それはそのまま諸仏も教えていることです。


次に「是を仏教に随順」とは、お釈迦様の教えに従うとことです。
「仏意に随順す」は、諸仏の教えに従うとことです。
「仏願に随順す」は、阿弥陀仏の本願に従うことです。


お釈迦様と諸仏が、「自力を捨て念仏を行じ、雑縁に近づくな」と教えられた通りになるひとが、阿弥陀仏の本願に従う人であり、真の仏弟子だといわれています。「偽」「仮」はそうではありません。

これに対して、2月26日の二千畳座談会では三願転入の話や「利他の信楽うるひとは」の和讃を出して、「釈迦の教えは19願」「諸仏の教えは20願」と言っていましたが、それは間違いです。
釈迦の教えも、諸仏の教えも同じく「自力を捨て念仏を行じ、雑縁に近づくな」です。内容を言えば、阿弥陀仏の第十八願以外にはありません。


上記でわかるように、「師匠(親鸞会で言えば会長)の指示に従うのが弟子」ではありません。お釈迦様の教えられた通り「雑行雑修自力を捨て、念仏を行じ、雑縁乱動するところに近づかない」のが真の仏弟子です。そうなった人は阿弥陀仏に救われ、現在生きているときに入正定聚の益を受けると言われたのが、真仏弟子釈の内容です。


あらためて考えてみると、高森会長の言っている「弟子は師匠の指示に従うロボット」というのは、会長自身が所属していた過去の日本軍での上官と部下の関係です。「上官ー部下」の関係を、真宗における「仏弟子」の関係とイコールのよう会員に思わせているに過ぎません。

「私の指示通りに動け」というのは、上官であって、師匠ではありません。真宗では「師匠」と言う言葉は使いませんが、あえて言えばお釈迦様の教えられた通り「自力を捨て念仏を行じ、雑縁に近づくな」と教える人がそれにあたります。

「自力一杯求めよ、財施せよ、念仏称えても助からん、親鸞会館に毎月来い、親鸞会を離れるな」と、お釈迦様とまるで反対のことを教える人が、どうして師匠といえるでしょうか?またそれに従う人がどうして仏弟子と言えるでしょうか?

お釈迦様の教えられるように「仏の去ら遣めたまふ処をば、すなはち去る」のが、真の仏弟子の取るべき行動です。