安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

二種深信の「自己の三世がわかる」というのは、会員さん自身が「今の前の生は○○であって、どんな生を受けていた。その前は○○であって、このような一生を送った、そのまた前は……」ということなのでしょうか?(会員さんのコメント外多数のコメントより)

会員さん、それ以外に多数の方よりコメントを頂き有り難うございました。

会員 2012/02/24 20:58
(中略)
敢えて根拠を挙げなければいけない、ということであれば、既に挙げてくださっている善導大師の二種深信のご文となりますが、ただそのご文の解釈に、やはり違いが
あるということが分かりました。

まず、機の深信のお言葉についてですが、なぜ「出離の縁あることなし」の部分だけを取り上げられるのでしょうか。

「曠劫よりこのかた~」もその一文のお言葉です。

法の深信についても同様、「さだめて往生を得」などを抜きに解釈されているように思います。

善導大師は、わざわざ必要のないお言葉を表記されたのでしょうか。

この根拠に限らず全てのお聖教のお言葉は、その一文を総合的に見て解釈すべきだと思います。

ここでもう一度、前のエントリーでした質問と同じような質問をさせてもらいます。

「出離の縁あることなし」「さだめて往生を得」とは、どの時点の自己のことなのでしょうか?
「曠劫よりこのかた~」は「出離の縁あることなし」にかかってくる部分なので合わせて読むべきではありますが、あえてyamamoya さんの解釈のように一部だけ取り上げるなら、

「出離の縁あることなし」とあるのは、悠久の過去からのことではないのですか?

また、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受された後、永遠の未来のどこかの時点で我々を見放されることがあるのでしょうか?

この質問の意味がご理解できなければ、自己の三世が分かるということが理解できないことになってしまいます。

そして、出離の縁あることなしの者が未来永遠に救われることが自覚されたなら、それ相応の驚きや喜びが起こってきて当然ということになるのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120224/1330074748#c1330084736

会員さんの主張の根拠は、善導大師の散善義に書かれた二種深信のご文だと言うことがわかりました。
そのご文を読んで、会員さんは

  • 地獄一定と極楽一定の自己が知らされる。
  • 三世があることを知らされる。
  • だからこそ言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくる。

と主張されているわけですね。

コメントの文面からの推察ですが、

  • 地獄一定と極楽一定の自己が知らされる。→「罪悪生死の凡夫」「さだめて往生を得」とある
  • 三世があることを知らされる。→「曠劫よりこの方」とある
  • だからこそ言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくる。→「さだめて往生を得」とある

ということでしょうか?

それと、会員さんの言われるところの「自己の三世が分かるということが理解できないことになってしまいます」についてよくわからないので、改めて質問します。

「自己の三世がわかる」というのは、会員さん自身が「今の前の生は○○であって、どんな生を受けていた。その前は○○であって、このような一生を送った、そのまた前は……」ということなのでしょうか?
一般的に考えると「自己の三世がわかる」という文章を読むと、自分の過去の全て、現在(死ぬまでも含めて)、未来の全ての姿が走馬燈を見るように見えるようにしか読めないのです。実際に、コメントを下さったいろいろな方もそのような意味で会員さんがコメントをしているという文脈でさらにコメントをされています。しかし、どうにも会員さんの文章はそうでもないような意味で書かれているように思いますが、その辺はどうなのでしょうか?

もし、会員さんが「実際に自分が三世を見た(過去の一切の行業をあたかも走馬燈のように知ることが出来た、そして現在の人生においても死ぬまでの行業が見ることが出来た、加えて未来一切の行業が見ることが出来た)」というのであれば、会員さんが「見た」こと自体はご自身で体験されたことなので、それ自体を否定するつもりはありません。

ただ、それは善導大師の書かれた二種深信のご文とは違うと言うことです。
なぜ違うかについては、コメント欄でいろいろと書かれていますので、教義的にはその通りです。しかし、会員さん自身に聞きたいことは、

会員 2012/02/24 20:58
(略)
もちろん、その理解の中には高森会長から聞いたことや自己の体験も含まれております。(以下略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120224/1330074748#c1330084736

といわれたことは、どこまでが「高森会長から聞いたこと」で、どこまでが「自己の体験」なのでしょうか?
会員さんは、「高森会長から聞いたこと」を、ただトレースしているだけなのでしょうか?
それとも、「自己の体験が高森会長から聞いたことと同じ」だからこのように主張されるのでしょうか?
あるいは、「高森会長から聞いたこと」通りの体験はないけれども、そんな体験が有るのだろうと想像して言っているのでしょうか?

教義的な論義としての根拠は、今回は出しません。このように主張される会員さんの論拠(なぜ「散善義」の二種深信のご文を「地獄一定と極楽一定の自己が知らされる」「三世があることを知らされる」「だからこそ言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくる」)が知りたいだけです。
正直に、お答え頂ければ幸いです。