安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定する前兆がないとすれば、いつ救われるのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定する前兆がないとすれば、いつ救われるのでしょうか?(頂いた質問)

いつ救われるのかと言えば、ただ今のことです。
「いつですか?」という問いは、とても真面目な問いですが、言葉の中には「今は救われていないけれども」という前提条件がついています。


このただ今救われていないことの方が、本願からいえば不思議なことなのです。「救われないのが当たり前」ではなく、「救われるのが当たり前」なのです。

もちろん「救われるのが当たり前」というのは、私にそんな力があるから、資格があるからではありません。あくまでも阿弥陀仏の本願からいえば、私を救うように成就されているからです。


そこで前兆なくただ今救われると言っても、突然雷が落ちるようなものとも違います。なぜなら、阿弥陀仏の本願力を、今まで真宗の法話を聞いたり、御文章を読まれたりしたことのある人は、すでに聞いているからです。すでに聞いている本願に救われるのですから、突然雷が落ちるような「全く想定外のこと」とはいえません。


いわゆる仏願の生起本末を聞いたならば、阿弥陀仏が私を救って下さることは全く不思議なことではありません。「こんな私を救うことはできないだろう」という話にはなりません。


問題は、その仏願の生起本末を聞きながら、疑っているところです。疑うとは「ただ今救う」本願を全く聞いたことがないのではありません。本願を疑うとは、真面目な顔をして聞きながら、「で、いつ助けて下さるんですか」と阿弥陀仏に聞き直すことです。


それでも見捨てられない阿弥陀仏ですから、本願を聞いて疑い無く聞くと、疑っていたことは大いに恥ずべきことだと安心決定鈔に書かれています。

なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、弥陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。(安心決定鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P1385)

http://goo.gl/0yY1r

阿弥陀仏が兆載永劫の間、私にかわって願行をされたことも、釈尊が八千遍この世に出られて本願を伝えようとされたことも、今まで聞かなかったことを恥ずかしいことだと書かれています。


今まで聞かなかったというのは、全く知らなかったのではありません。聞いていながら、それを全く自分の計らいでその通りに聞かなかったのです。そのことを、恥ずかしいといわれているのです。


仏願の生起本末を聞きながら、自分で否定した上で「自分はまだ本願を聞いていない」という心が、本願を疑う心です。その心は直ちに捨てて、ただ今救う本願をそのまま聞いて下さい。必ずただ今救われます。