安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聴聞とは、19願や八万四千の法門を聞くことなのでしょうか?(頂いた質問)

2月20日の親鸞会館2000畳座談会に参詣した者です。
「教えに従うには、教えを聞かねばならない。何を聞きに来たのか、どなたの話を聞きに来たのか、弥陀の19の願を一切経に正確に説かれた教えを聞きに来たのではないですか?」という話がありました。
聴聞は19願の教えや、八万四千の法門を聞くことなのでしょうか?(頂いた質問)

聴聞とは、実行するためのものがらを教わる場ではありません。阿弥陀仏の第18願を聞かせていただくのであって、19願や八万四千の法門を聞く場ではありません。
お釈迦様が八万四千の法門を説かれたといっても、お釈迦様が説かれたかったことは、阿弥陀仏の第18願以外にはありません。

如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり(正信偈

と言われているとおりです。

「教えを聞く」というのは、「第18願の救い」を聞くことですから、「聞く」ことは、「救われる」ことです。
決して、「聞く」ことは、「実行する準備として、実行する内容を聞く」のではありません。
聴聞は、19願の教えを聞く場であり、八万四千の法門を聞くといってしまえば、聴聞の場で救われる人はありません。「聞いて」→「実行して」→「進んで」→「救われる」と、随分長い道のりを通らねばなりません。
また、その場に行けない人は、実行も出来ないので、「その場に行けない人は救われない人」ということになります。
自分の臨終に聞きたい話かどうかを考えてみられればわかると思います。臨終になって「まずは、ここの会場へ来なさい」と言われても、そんな時間は残されていません。臨終になって「その聞いた話通りに、善を実行しなさい」と言われても、実行する暇がありません。

阿弥陀仏は、私を救済する仏さまです。どうにもならない人間を、真人間に矯正してから救う仏さまではありません。どうにもならない人間を、ただ今が臨終の人間を救うには、そのまま救うという手立てしか有りません。

極悪深重の衆生は 他の方便*1さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ(高僧和讃97・浄土真宗聖典(註釈版)P595

善を実行しようにもできない、またはその暇のない人を救うには、「他の方便さらになし」です。
当日の座談会では、「善を実行する以上の近道があると思うのは、阿弥陀仏より上に立った考え方で、仏教が始まっていない」と会長は言ったそうです。
ただ今救う本願に向かおうとする人を、あたかも阿弥陀仏の御心に反する人であるかのようにいうのは、ただ今救われたいという切実な気持ちを全く無視した暴言としかいいようがありません。
極悪深重の衆生を救うための本願を差し置いて、まず善を実行せよと人にすすめるのは、阿弥陀仏より上に立った考え方です。

阿弥陀仏の本願の、ただ今の救いを阿弥陀仏から聞いて、ただ今救われてください。

*1:【左訓】「余の善、余の仏・菩薩の方便にては生死出でがたしとなり」