安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその5:異義「愚禿鈔に白道を『白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。』と言われているから、白道は自力要門である」

異義その5

愚禿鈔に白道を「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。」と言われている。これは、白道が、その人によっては白路(自力)になるといわれているのではないでしょうか?

回答

愚禿鈔にあるご文は以下のものです。

白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P537)

http://goo.gl/02td5

これは捨てるべき白路を出されたもので、選び取られた白道については

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。

の釈に「能生清浄願往生心(=白道)」として書かれたものです。よって、最初の「白とは、すなわち」の部分は白路(自力)についていわれたもので、白道(能生清浄願往生心)について言われたものではありません。


そもそも白道の説明について、教行信証信巻と愚禿鈔を対照してみると、白道、白路、黒路、黒道の四句があります。
※参考までに、白道、白路、黒道、黒路について書かれた箇所

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P244)

http://goo.gl/U1nPx

「白道四五寸」といふは、
「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路(白路)なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道(黒道)なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。
「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P537)

http://goo.gl/02td5

愚禿鈔では、黒路を白路・黒道に収めてこれを捨てものとし、白道はその下の「能生清浄願往生心」の釈の部分で詳しく書かれています。そのように親鸞聖人が、ここに捨てものをあきらかされるのは、本願の白道は、その体は清浄真実の大道ですが、釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞く前は、白道を見ながらなお定散の白路のように思えてしまうからです。とても大丈夫なようにも思えず、また、自分の力で歩んでいくように思ってしまいます。そのため、行者が白道を前に進もうか留まろうかと進退にまよっている相です。まったくこれは定散自力の人の欠点をあらわされたものです。この人が発遣と招喚の声を聞き得て初めて白道が本願一実の大道であることを知らされ、こんな細い道で大丈夫だろうかとの疑惑は一切なくなります。

どうしても白道が白路に見えるかもしれないが、真実の大道だからなんとか白道に出てもらいたいと親鸞聖人が苦心をされて解説されているのが、上記の白道、白路、黒路、黒道と分類されたところです。
決して「白道の途中までは白路だから、そこまで自分で進め」といわれたものではありません。