私が、かつて所属していた親鸞会の高森会長は信心と念仏を別物として会員に教えていました。そのため、私が親鸞会に在籍していたころの「信心正因 称名報恩」の理解は、極端に言えば「信心」が往生の因であるから、称名はお礼の意味しか無いというものでした。当時は、いわゆる行信論という単語も知らない状態なので、信心と念仏を分離したものとしか考えていませんでした。
しかし、その考えは間違いです。
コメントで、紹介されているとおり、
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(親鸞聖人御消息26(末灯鈔12)浄土真宗聖典(註釈版)P785)
http://goo.gl/Bk41J
と親鸞聖人は教えられています。
阿弥陀仏の本願は、念仏するものを極楽へ迎えると誓われていることを、深く信じて称えることがめでたいことだと言われています。
そのため、第十八願の名前として、教行信証信巻には、「念仏往生の願」と言われています。それも、信巻には18願の願名として、五つあげられているなかの最初に「念仏往生の願」と言われています。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版P211)
http://goo.gl/gERTT
南無阿弥陀仏を疑い無く聞いるのが、信心ですから、南無阿弥陀仏を抜いた信心というものはありえません。
念仏も信心も、ともに名号のお働きが私にあらわれて実際に働いておられることです。ですから、念仏も信心も、そのものがらは名号・南無阿弥陀仏のお働き以外にはありません。
その南無阿弥陀仏の働きが私にはたらいて下さっていることについては、私の考えや動作が立ち入る余地は全くありません。多少はあると思うのが、計らいです。ただ南無阿弥陀仏が、そのまま私の上というか、私にはたらいて下さっている姿が、念仏であり、信心です。
そのため「称名報恩」という言葉も、私の側からいえお礼の心で称える以外にはないからいわれるのであって、称名という私の動作が「報恩の結果を引き起こす行であり、信心とは別物」という意味ではありません。