安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「求道」とは、「過程を求める」ではなく「白道を求める」こと(通りすがりさんのコメント)

通りすがりさんのコメント

阿弥陀仏に救われようと、阿弥陀仏に向かおうと取り組み、もがく過程を求道というなら、信仰が進む、進まない、という表現はあまり違和感を感じないのですが、実際に救われた人から見ると、違和感ある表現なのでしょうか?(通りすがりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091021/1256129656#c1256179830

回答します。
通りすがりさんのコメントについて複数コメントを頂きまして、有り難うございました。

「もがく過程を求道」とはいいません。
求道という言葉の定義は人によっていろいろあるとは思いますが、一般に聖道仏教の道を求めたり、ある道を究める過程を指して使われている言葉です。
しかし、阿弥陀仏の救いを求めることを、求道と言う場合は、善導大師の二河白道の譬えにでてくる「白道を求める」という意味と聞くのが適当だと思います。

また<中間の白道>といふは、すなはち、貧瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず(浄土文類聚鈔

中間の白道とは欲や怒りの煩悩の中に阿弥陀仏から差し向けてくださる信心を獲得することに例えられたものです。お釈迦様のお勧めと、阿弥陀仏の呼び声によって、水の河と火の河を顧みず、阿弥陀仏の本願力の道に乗ることだと言われています。

如来回向の真実信心を求めると言うことを、「求道」と言った場合は、「求める過程」ではなく、「信心獲得する」ことです。「ただ今阿弥陀仏に救われる」ことです。

一般にいう「求道」とは「死ぬまで求道」では有りませんが、求める過程という意味で使われることが多いですが、「白道を求める」という意味でいえば、「白道を一歩踏み出す」ことであり、「阿弥陀仏に救われる」ことです。

違和感というよりは、言葉の定義の違いだと思います。