安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその4:異義「解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊によびかえされる者がいることを示されているから、白道は要門だ」

異義その4

群賊が旅人にむかって「帰ってこい」と呼び止めるのは、二河白道の喩えではお釈迦様が「この道を往け」と言った後に言っていることになっている。しかし、そのあとの解説の文では、釈迦が勧めて、阿弥陀仏が喚ばれる間に、それらを聞いてなお群賊によびかえされる者がいることを示されている。だから、これをいろんな意見で道を失うとか、自ら造った業で道を失うと言われている。これを要門の白道と言わずしてなんというのだろうか?

回答

異義で言っている部分は、以下のところです。

〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。(浄土真宗聖典(註釈版)P226)

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二河白道の喩えの本文は、東の岸の発遣と、西の岸からの招喚の声を聞いて白道を進んでから、群賊らが呼び戻そうとします。それに対して、この合法の文(解説)では、東の岸のお釈迦様のお勧めの後に、群賊らが呼び返す部分の解説が入り、その後西岸上の喚び声となっています。
では、これは異義の通り、お釈迦様の勧めに従って進もうとする途中に群賊らに呼び戻される行者がいるのかというと違います。なぜなら、外からのいろいろな批難は主にお釈迦様の教えによって起きることを表しているからです。釈迦様の勧めが方便であって、群賊の呼び戻す声で転落するものがいるということを表したものではありません。

事実、例え話では群賊たちが帰って来いと呼びかけても行者は振り返ることなく白道を進んで行ったと書かれています。

東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

解説の部分では、ただその群賊達がかえって来いと呼びかける内容を表しているだけです。

異義の「これをいろんな意見で道を失うとか、自ら造った業で道を失う」と言っているのはそのことです。これは、すでに白道に乗った念仏者に対する外からの批難の内容であって、行者が転落することではありません。

該当箇所に括弧を加えると以下のようになります。

別解・別行・悪見の人等(が、念仏の行者にむかって)「『(念仏を信じる者は、釈迦の本心を知らず)みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失す』と説く」に喩ふるなり。

異義は、「お前たちは道を失うぞ」と念仏者に言っている群賊の言葉を、念仏の行者が道を失うと考えているので完全な誤読です。