安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその6:異義「お釈迦様の発遣の言葉には「直ちに」という言葉がないのは、方便をあらわされているからである。西岸上の阿弥陀仏の喚び声に「直ちに来たれ」と言われているのは、釈迦の発遣に方便を捨てて、真実に入れと言われていることを示されているのである。そういう意味で言えば、お釈迦様の勧めによってすすむ白道は、要門(19願・廃悪修善)に通じるのだ。」

二河白道の喩えについては、今回で一旦終了します。

異義その6

愚禿鈔に阿弥陀仏の「直ちに来たれ」の「直」の言葉を「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。」と言われている。そこから類推すると、お釈迦様の発遣の言葉には「直ちに」という言葉がないのは、方便をあらわされているからである。西岸上の阿弥陀仏の喚び声に「直ちに来たれ」と言われているのは、釈迦の発遣に方便を捨てて、真実に入れと言われていることを示されているのである。そういう意味で言えば、お釈迦様の勧めによってすすむ白道は、要門(19願・廃悪修善)に通じるのだ。

回答

異義にある愚禿鈔のお言葉は以下の箇所です。

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。(愚禿鈔下巻・浄土真宗聖典(註釈版)P538)

http://goo.gl/K07c1

ここで「『直』の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり」とあるのは、釈迦の発遣と弥陀の招喚が一つであることをあらわされたものであって、釈迦の発遣が弥陀の招喚と別ものであることをいわれたものではありません。
そこで、愚禿鈔にはそのあとに

また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。(愚禿鈔下巻・同上)

と言われています。

そこから考えてみると、善導大師が二河白道の喩えの本文中で東の岸の勧める声に「ただちに」という言葉がないといっても、合法の文では、

〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉(教行信証信巻ー二河譬・浄土真宗聖典(註釈版)P226)

http://goo.gl/PmDdT

と書かれています。西岸上の招喚の声に呼応して、東の岸の声は全く同じことを言われます。そのため、発遣と招喚を聞いた行者は「ただちに西に進む」のです。そういう意味からすると、すでに西岸上の招喚の前にすでに「ただちに」の言葉があることになります。そのことを考えると、どうして釈迦と弥陀の二尊の勧めを分けて考える必要があるのか全く理解できません。まして、招喚と発遣は「二尊一致」をあらわしたもので、要門と弘願を分別する「二尊二教」とは同じであるはずがありません。

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ひと通り是山和上の本からまとめてみました。今思いますと、親鸞会の二河白道の喩えは「釈迦の発遣=要門」で一貫していたのだということがよく分かりました。

親鸞会の教義が三願転入を言い出した平成5年以降変わったという意見もありますが、この二河白道の喩えからすれば、平成5年以前も以後も親鸞会教義は全く変わっていません。いうなれば、「親鸞会的三願転入」は、「親鸞会的二河白道」の言い換えに過ぎないからです。
なぜなら、全てこの二河白道の譬えでの「弥陀の招喚(弘願)と、釈迦の発遣が別もの(要門)だ」が、親鸞会教義のベースになっているからです。

その間違いから以下の4つの「親鸞会教義」がでてきました。

  1. まず善知識の仰せに従わねば進めない。
  2. 善知識の勧めは要門(善のすすめ)だから、親鸞会に献金・人集めをしろ。
  3. 善知識の仰せに従って進んでいくと、不思議な声がする。
  4. それまではとにかく善知識の勧め(要門の勧め)に従うしか無い。

親鸞会でしか二河白道の喩えを聞いたことがない人に、特に知っていただきたいところは「二尊一致」というところです。
釈迦の発遣と、弥陀の招喚は全く同じです。お釈迦様の「教」は、「善の勧め」ではなく「弥陀に帰命せよ」「南無阿弥陀仏に救って頂きなさい」です。その仰せを聞いて疑いないのが、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」です。そのようなお釈迦様の仰せは、阿弥陀仏の招喚に応じてそのまま教えられたことだからです。お釈迦様の「教」は、阿弥陀仏の招喚に何か加工することなく、そのまま伝えられたものです。
順番を逆に言うと、お釈迦様の発遣以外に、弥陀の招喚はありません。そのまま聞いて、ただ今救われて下さい。