安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその1

前回のエントリーの続きです。
二河白道の譬えの東の岸の声は「要門」という異義については、是山和上の本で否定されているのですが、6つ全部書くと長くなるので、今回は最初の異義について書きます。回答の内容は、是山和上の書かれたものを私が親鸞会教義を加味して現代文にしたものです。

(異義)

  1. 二河白道の譬え話の中で、東の岸の人は「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。」と言っている。これは、その前に旅人が四五寸の白道を見て「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。」と言っている。その旅人の心には、この白道を進んで大丈夫なのだろうかという思いがある。それをそのまま察知して東の岸の人は「この道を尋ねて行け」と言っているのだ。この旅人のどうしようかと定まらない心が、西岸上の人の喚び声を聞いて、直ちに白道を進もうという気持ちになる。だから、東の岸での釈迦の発遣は要門(19願、廃悪修善)になるべきである。

回答

東の岸の人のすすめる声が、旅人の「この白道を進んで大丈夫なのだろうかという思い」を考慮して、「この道を尋ねて行け」と解釈するのは大変な間違いです。なぜなら旅人は「われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん」と言っているからです。またこの旅人は、必ず浄土往生できる(西岸に辿りつける)というハッキリとしたものはないものの、東の岸で勧める声は「ただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん」です。これは、明らかに第十八願の「直ちに来たれ(ただ今救う)」を教えられたものです。

お釈迦様の発遣の「ただ決定してこの道を尋ねて行け」は、西岸上の阿弥陀仏が「一心に正念にしてただちに来れ」と喚ばれる声と一致します。そのため、お釈迦様の発遣と、阿弥陀仏の招喚に従うことを指して、旅人は「決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜず」して白道を進んでいきます。

よって、お釈迦様の発遣の「ただ決定してこの道を尋ねて行け」とは、「本願成就文」の「聞其名号信心歓喜乃至一念」の意を仰ったものであります。
二河白道の譬えで、旅人が「道を尋ねて去かん」というのと、お釈迦様が「道を尋ねて行け」と言うのは、文字で見ると同じように見えますが、旅人は「われ寧く(むしろ、どうせ死ぬならば)」と言っているのに対して、お釈迦様は「ただ決定して(そんな賭けに出るような心ではなく、間違いなく西岸に渡れる)」と言っています。その言っている意は、二つを比べると大いに違います。
なぜなら、二河白道の喩えを解説された部分には、東岸の勧める声について「道を尋ねてただちに西に進む」と解説されているからです。「ただちに」というのは、廃立をしめされた言葉です。

ーーーーーーー
この異義は、要するに三定死の旅人が「どうせ死ぬなら前に行こう」(信前)というのと、お釈迦様の「前へ進め」が同じだから、釈迦の発遣は要門だという意見です。
しかし、二河白道の喩えで、善導大師が解説されている東の岸の勧めは「ただちに西に進む」ですから、「善をしてから進む」でもなければ「極悪人と知らされてから進む」のでもなく、「ただ今進め」と言われ、○○してからという考えは捨てなさいという廃立の教えからいわれていることです。
よって、東岸の釈迦の発遣は要門であるというのは、間違いです。