親鸞会・高森顕徹会長の二河白道の喩えはおかしいと思います。どこがおかしいのでしょうか?(頂いた質問)
富山県射水市にある浄土真宗親鸞会で高森顕徹会長が話をしている二河白道の譬えは、本来のものと全く変わっています。
今回は、そもそも譬え話からして違うという点について書きます。
親鸞会の二河白道の喩え
- 旅人が無人の荒野を旅していました。
- 尊い人が西へ行けと教えます。
- 西に向かうと、水の河、火の河が突然として現れます。
- 東岸の人は、その中の白道を往けと勧めます。
- それでも旅人は、中間の白道(四五寸)を進みます。
- 白道を進む旅人に、群賊悪獣悪知識が「帰ってこい」と誘惑、妨害してきます。
- それでも白道を進むと、往くも死、帰るも死、とどまるも死の三定死の状態になります。
- その時に、西岸から喚び声が聞こえる。
- 声が聞こえると同時に行く先がなくなった白道が再び開け、旅人は白道を進んで、西の岸に着きました。
善導大師の二河白道の喩え
- 旅人が、無人の荒野を旅していました。
- 群賊悪獣に追われて、死を畏れて西に向かいました。
- 西に向かうと、水の河、火の河が突然として現れます。
- 群賊悪獣に追われて、帰るも死、とどまるも死、先にゆけばまた水火の二河に落ちて死んでしまう。
- 旅人は、そこで、どのみち行き場がないのなら、むしろ前に進んで行こうと決心をします。
- 東の岸に、この道を進めと勧める声と、同時に西の岸にいる人が「直ちに来たれ」と喚ぶ声をたちまちに聞きます。
- その声を聞いた旅人は、疑いや恐れる心がなくなり、白道を進んでいきます。
- 白道を進み始めると、群賊悪獣が「帰ってこい」と誘惑します。
- それらの声に惑わされることなく、旅人は白道を進み、西の岸に着きました。
このように並べて書くと分かりやすいですが、時系列で話の流れがそもそも違います。
しかし、一番の根本的な間違いは、東の岸の勧める声の内容が異なる点です。
釈迦の発遣と言われる、お釈迦様のおすすめは、親鸞会の解説では「要門・19願・廃悪修善」になっています。しかし、本来はこのお釈迦様の発遣は「本願成就文」です。
譬え話でもこの、阿弥陀仏の招喚の声と、釈迦の発遣は同時に出されています。同時に出るということは、阿弥陀仏の本願によって、それに応じてお釈迦様が仰ったことですから、内容は同じです。
観無量寿経で言えば、「苦悩を除く法」とお釈迦様が仰ると同時に、阿弥陀仏が空中に現れられたのと同じことを表しておられます。親鸞会でも、観経で「苦悩を除く法」は定散二善とは説明していません。
同じように、二河白道の譬えでお釈迦様が「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。」と言われるのは、苦悩を除く法であり、本願成就文をあらわされたものです。ですから、釈迦の発遣と、阿弥陀仏の招喚の声を聞いて疑いや恐れがなくなった旅人は、本願の白道に乗り、信心獲得の身となり、白道を一歩二歩と進みやがて浄土往生を遂げます。
親鸞会教義の善の勧めや、求道しなければ救われないの根っこにあるのは、この二河白道の譬えでの釈迦の発遣を要門の教えと間違っているところから起きています。
二河白道の譬えでのお釈迦様の勧めは、本願成就文にあるように「聞其名号」です。南無阿弥陀仏を疑いなく聞けとのお勧めですから、ただ今聞いて救われて下さい。
参照:二河白道の喩えの原文(教行信証信巻に引文されたもの)
また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。
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この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。