安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

補足:「二河白道の喩えで、東岸の釈迦の発遣は要門である」は間違いその3:異義「すなはちもろもろの行業を回して」とあるから白道は要門だ。

元のエントリーには異義が一つ抜けていたので追加で書きます。

異義

合法の文に「〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。」とあるのは、これ定善散善を回向する自力の行の相である、これが白道が要門に通じるという証明である。

回答

二河白道の喩えの以下の文章

〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。(浄土真宗聖典(註釈版)P226)

http://goo.gl/PmDdT

これを、いわゆる「廻因向果」と読んで白道に乗っている行者の中に自力の人がいるという勘違いをする。そこでここはいわゆる「廻思向道」の心であると伺ったならば、行について心を示しているので、定散心を回転して(捨てて)願力の道に進んでいくことである。
上記のご文でも「人、道の上を行いて」とありすでに白道の上に乗っているのは、釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞いた後のことです。それを聞く前は、白道に乗ろうか乗るまいかと心が定まっていないので、白道には乗っていません。
また、「ただちに西に向かふ」と言われるのは、「きみただ決定してこの道を尋ねて行け。」の釈迦の発遣と、「ただちに来たれ」の弥陀の招喚に信順する如実修行の者であることを明らかにされたのであって、本願の白道を進行する念仏者でないわけがない。

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もろもろの行業を回してとあるから、とにかく自力回向だといいたいのが異義者の意見です。しかし、ここの「回」は、回転の意味で捨てるという意味になります。
もともと白道=願力の白道であるという前提を無視して、どうにか白道を自力で進む道としたい人は上記のご文を見ると、やっぱり自力回向なのだと主張してきます。しかし、白道に乗ったということは阿弥陀仏の仰せに従い、お釈迦様のお勧めに従った相なので、これが要門ということには絶対になりません。