安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は、自分を含めて人間には善人がいるようには思えないのです。」(SSSさんのコメントより)

SSSさんよりコメントを頂きました。有難うございました。

SSS 2012/01/18 00:02
(略)
私は、自分を含めて人間には善人がいるようには思えないのです。

もちろん親切な人はいますし、自分も親切の真似事をしますが、全て利害、打算が介入するのです。

これは深層心の話なので、大半の人は無意識的です。

ただ私は仏法を求めていることもあり、自己の心を掘り下げる程にそんな心しかないことに気付いたのです。

こんな者は悪人だ。来世に良いところなどにいけるはずがない。と

ただこれは、私個人の実感にしか過ぎません。

だから他の方々には善人もいるのかもしれませんね。

羨ましい限りです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120117/1326791517#c1326812555

SSSさんが、自分は悪人だと思われたことそのものを否定しているわけではありません。しかし、自分が悪人だからみんな悪人だと思うのは間違いです。こういうことを書いている私も、別に自分は善人だと思って書いているわけではありません。
親鸞会を辞めてからより感じることですが、もちろん完全な善人というのは仏でない末代の凡夫にはありえないこととしても、利害・打算を抜きに行動する人が実際にあるということです。そんな人を「極悪人」とは私はとても思えません。


本当に全人類が悪しか造ることができないのであれば、法然上人や親鸞聖人が悪を戒められたお言葉がなぜあるのかという道理が通りません。親鸞聖人の御消息は有名ですから、今回は法然上人のお言葉を紹介します。

つみをは十惡五逆のものなをむまると信して。小罪をもをかさしとおもふへし。罪人なをむまるいかにいはんや善人をや。上人の給はく罪は十惡五逆の者も生すと信して、少罪をも犯さじと思へし罪人なほ生る况や善人をや(浄土宗全書第9巻P566 -和語灯録 )

※原文を読みたい方は宗祖法然上人800年大遠忌記念 浄土宗全書(JODOSYU ZENSYO) 検索システムで「小罪をもをかさし」で検索して下さい。

罪は十悪五逆の者を阿弥陀仏は救ってくださると信じて、小さな罪も犯してはならないと思いなさい。罪人が往生できるのだから、善人はなお往生できる。法然上人の仰せには、罪は十悪五逆のものも救うを信じて、小さな罪も造らないと思う悪人はなお救われるのだから、善人は尚更である、と言われています。


これは有名な歎異抄3章の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや*1」と逆のことを言われているように思える文章です。
しかし、この法然上人のお言葉は、悪を慎んだら救われるといわれたものではありません。「十悪五逆のものでも救われるのだから悪をしても大丈夫」と本願にほこり、造悪無碍に陥った人を戒めるために言われたものです。言い換えますと、本願を「悪人を救うといわれているから悪をしたほうがよい」と聞き間違える、いわゆる邪見を戒められたものです。

往生のために善をする必要はないとはいえ、悪いことをしたほうがよいとか、悪の自覚が有る方が良いと思うのは本願を誤って見る邪見です。それを戒められたお言葉をもってきて、また親鸞聖人の御消息も含めて、廃悪修善(止悪作善)が往生の道と説くのも聞くのも全く間違いです。

前回のエントリーで、涅槃経の七子の喩えを紹介しましたが、病に苦しむ子供に親の慈悲はひとえにかかるといっても、子供が悪を造ることを好む親はありません。同じように阿弥陀仏も悪を造るものを哀れに思われても、悪を許されたわけでも、悪を好まれたのでもありません。そういう意味で法然上人も親鸞聖人も悪を造ってはならないと戒められました。阿弥陀仏を親とし、私を子供とすれば、「親を泣かせるな」と教えてくださっているのです。


しかし、一番親を泣かせているのは罪を造ることではなく、阿弥陀仏の仰せを聞かないことです。「ただ今救う」の本願に背を向けて、自分の罪悪に向きあおうとする相こそ阿弥陀仏が最も哀れに思われるところです。それは曇鸞大師が、「蚕繭の自縛するがごとし」と言われているとおりで、蚕が自分の口から吐いた糸で造った繭から出られないように、自分で自分を出離させなくしているのです。


SSSさんのように、自己の罪悪に向きあおうとしたり、それに苦しんでいる人に阿弥陀仏は「もういいんだ。もういいからそのまま来い」とよびかけられています。ただ今救う本願をただ今聞いて救われて下さい。悪を許されたのではありませんが、もうそれ以上あなたが苦しむことを阿弥陀仏はとても静観してはおられないのです。その願心を聞いて下さい。