安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

念仏は自分で称えるものではなく阿弥陀仏の喚び声だと思って称えていますが、特になにもありません。どう思って称えても、やはり自力の念仏になってしまいます。(頂いた質問)

念仏は自分で称えるものではなく阿弥陀仏の喚び声だと思って称えていますが、特になにもありません。どう思って称えても、やはり自力の念仏になってしまいます。(頂いた質問)

言われる通り念仏は、私をただ今助ける阿弥陀仏の喚び声であって、私の行ではありません。そのため、私がどれだけ称えた、どんな気持ちで称えたという自分の行としての功徳を期待しても何もありません。


自力の念仏とは、本来阿弥陀仏の行である南無阿弥陀仏に自分の力や計らいを加えることです。
確かに念仏は私を救う働きがあります。そこで、計らわないようにとか、何も考えないようにしようと思って称えても他力の念仏とはいいません。


法然上人のお言葉には、以下のようにあります。

又いはく、本願の念仏には、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきてのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申すなり。(諸人伝説の詞)


本願の念仏は、私の手助けを必要としません。手助けが必要とおもって、手を出す人は報土往生できないと言われています。智慧のある人は、智慧を念仏の手助けにします。また、戒律を守ることを念仏の手助けにします。あるいは、求道心を念仏の手助けにしたり、慈悲の心を手助けにします。


しかし、そのような手助けは念仏には必要ありません。そのままの念仏が、阿弥陀仏の行であり本願によって選ばれた行です。
こう考えて称えようとか、こう考えないようにして称えようとするのはみな念仏に手助けをしようという考えです。そこから離れて、本願の念仏によって救われてください。