安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願は悪人正機と聞きますが、悪を悪と自覚しないといけないのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は悪人正機と聞きますが、悪を悪と自覚しないといけないのでしょうか?(頂いた質問)

これについては、御文章に本願の相手についてどのように書かれているかという点から読んでいきます。

それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。(御文章2帖目9通)

http://goo.gl/yz3J9n

ここでは「いかなる罪ふかき機」を救うと誓われています。このいかなる罪ふかき機とは、どのような人をさして言われているかといえば、「十悪五逆の罪人も、五障三従の女人」とも御文章では言われている人です。罪深いものを助けることが本願を建てられた御心です。


しかしここで、「いかなる罪ふかき機」といわれたのは、「私が私で自覚する罪悪」のことではありません。私からみた私ではなく、仏からみられた私の姿を言われたものです。阿弥陀仏の側からご覧になると私は「救わずにおれない」ような者であるということです。別の言葉で言えば、私がどのような者であるかと「自覚する」より先に、阿弥陀仏が問題にされているということです。

そこで、罪悪とか悪人とかいうことも全て私の自覚に先だって,阿弥陀仏の本願の上からいわれていることなので、御文章には以下のように書かれています。

このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。(御文章4帖目9通)

http://goo.gl/sOTR49

それを、「阿弥陀如来の仰せられけるやうは」と言われています。悪人正機といわれる悪人は、本願の上で、仏様の方ですでに問題にされている者のことで、本願に背を向ける十悪五逆の凡夫のことです。

どんな人間であっても、その人がどういう人だと自覚する以前に、またその人がどんな人間に今後成っていくか以前に、すでに仏の側で問題にされた上で救うと言われているのです。

その結果、善人の善がプラスになることもなければ、悪人の悪がマイナスになることもないという平等の救いを誓われているのが阿弥陀仏の本願であり、南無阿弥陀仏です。それを悪人正機といわれています。