安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「五逆罪を造らざるを得ない、どうしようもない業を背負っているのです。阿弥陀仏は人間をそんな者と見抜かれて、本願を建てられました。私などが全人類を一律に規定できるはずがありません。全人類を一律に諦観されたのが阿弥陀仏なのです。」(ギゼンさんのコメントより)

ギゼン 2012/01/16
ギゼンは人でなしさんへ

あなたの気持ちはよく分かります。私自身も心からそんなことは思えないところはありますが、果たして人間は、それほど善良な存在でしょうか。

もしそうなら、歴史的に繰り返された悲劇、今もなお続く、戦争、殺戮が起こるはずがありません。

しかしここで、それは一部の非情な人間だけで、私ではない、と思われるでしょう。

よく自身の心を反省していただきたいのですが、今までに誰か他人に不快を感じたとき、その人がいなくなればよい、と思われたことがあるはずです。
これは誰もが思うことですが、この思いが何かのきっかけで増幅されたとき、戦争や殺人に発展するのです。邪魔者は消せ、という戦争などは全てその思いが温床といえるのです。
そして、その思いが自分の親に向いたときは、五逆罪になります。

・親をそしるものをば五逆のものと申すなり。

親鸞聖人のお言葉ですが、実際に手にかけるだけが、罪ではありません。
親を疎んじる心がそうさせるのですから、悪口を言うだけ、思うだけでも同罪なのです。

そしてこの罪は我々が造ろうとして造っているのではなく、そんな罪を造らざるを得ない、どうしようもない業を背負っているのです。
阿弥陀仏は人間をそんな者と見抜かれて、本願を建てられました。

私などが全人類を一律に規定できるはずがありません。全人類を一律に諦観されたのが阿弥陀仏なのです。

ですから、出産に関しても、その造らざるを得ない罪の一つなのです。

しかしだからこそ、そんな罪を、親の苦しみを感じるからこそ、その親の恩に報おうと思えるのです。

親が子を産むのは当然と思うから、感謝もできず、果ては、親が子を、子が親を殺してしまうような、今日にも起きている悲劇が繰り返さてしまうのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120112/1326354470#c1326688886

末灯鈔のお言葉については、幹部会員歴数十年さんのコメントを御覧ください。

阿弥陀仏が私をどのようにご覧になって本願を建てられたのかについて書きます。
ギゼンさんは、「私などが全人類を一律に規定できるはずがありません。全人類を一律に諦観されたのが阿弥陀仏なのです。」と言われる一方で、その一律の基準を「人間が悪を造らざるをえない重い業を造っているから本願を建てられた」という部分に設定されたと言われているのだと思います。
その理由は、ギゼンさんのコメントの「果たして人間は、それほど善良な存在でしょうか。」「そんな罪を造らざるを得ない、どうしようもない業を背負っている」という部分から私が感じたことです。

全人類に共通して言えるという部分は「五逆罪」ではありません。また、どれだけの善が出来るかという点でもありません。共通しているのは「自力では浄土往生できない」という点です。

例えば、罪悪という点で言えば、より重い罪悪を造っている人もいれば、そうでない人もいます。また、同一の人間にしても、生まれたばかりのころと、現在、また未来では造る業もそれぞれ異なっています。「自分がそう思うからみんなそうなんだ」と考えるのは間違いです。本願によらねば浄土往生できないという点以外は、みんな違います。


人間という種または存在=悪というくくりで、阿弥陀仏が本願を建てられたのではありません。
それは、前回のエントリーにも紹介した、浄土論註のご文でいうと、以下のものです。

仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。 このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。(浄土論註・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P57)

http://goo.gl/5qCqe

阿弥陀仏が本願を建てられたゆえんは、すべての人をご覧になったとき「虚偽の相」「輪転の相」であったからだと言われています。尺取虫が同じところをいつまでも出られないように、蚕が、自分でまゆを造って出られないようようなものだと言われています。
つまり、いつまでも流転を重ねてそこから離れることができないという点が、ギゼンさんのコメントでいう「全人類一律の基準」です。


善導大師のお言葉で言えば、

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(教行信証信巻・機の深信・浄土真宗聖典(註釈版)P218)

http://goo.gl/DqVem

「出離の縁あることなし」という点です。いわゆる自力無功の私に対して本願を建てられたのです。

基準を「極悪人」に設けるか、「自力無功」に設けるかでは、話が全く変わってきます。
基準を「極悪人」に設けると、阿弥陀仏は「全人類=極悪人」と見て取られたということになり、どんな人も自覚がないだけで全く同一の業を共有しているということになります。ギゼンさんのように、何が何でも全ての人を悪人にしなければならない世界ができあがってしまいます。加えて、そのためにより信罪福心に囚われてしまい、そこから抜け出せなくなってしまいます。

それに対して、基準が「自力無功」の場合は、五逆罪を造っている人もあれば、そうでない人もあります。反対に、世の中で言う善人もあれば、定善や散善を実行出来る人もあるということになります。しかし、それら善人も悪人もいろいろあるなかで、共通しているのは「自力では浄土往生できない」ということです。阿弥陀仏は、そういう私を救うために、私の行を一切必要としない本願を建てられて、南無阿弥陀仏一つで浄土往生させると働いておられます。

(72)
願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃)

http://goo.gl/4OhtR

そのことを、ご和讃ではこのように言われています。阿弥陀仏の浄土は本願力によって成就したところだから、自力の心行では絶対に行くことはできません。そこで、大乗仏教、小乗仏教の聖人といわれる方も、自力を捨てて本願力に乗じられたのです。

ですから、次のご和讃も、続きで書かれているので

(73)
煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ(高僧和讃)

大小聖人でさえ自力の心行を捨てられたのだから、まして煩悩具足の者は本願力に乗ずるべきだと勧めておられるところです。ここで煩悩具足と言われるのは、「=五逆の者」ではありません、何をやっても真実の行ができない(自力無功)者という意味です。

そのように何をどうやっても浄土往生できるような行ができない私という点に、阿弥陀仏の本願を建てられた大慈悲があります。ギゼンさんがいうような「罪悪を造っているから」という言い方は私一人のこととして語る場合ならそれでもいいかもしれませんが、「全人類」でいう話ではありません。