安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「布団は何枚もある」という布団一枚があるだけです(nowhereさんのコメント)

nowhereさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)
この距離感の原因は本願に明らかです。すなわち「唯除五逆 誹謗正法」です。ただいま救う弥陀の心を遠ざけているのは、過去世からの私の作ってきた罪悪です。それが、今の私の心には「名号の功徳を信じない心」「他のものをあて力にする心」「月を遮る蓋」となって顕れているのでしょう。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

「五逆の罪、誹謗正法の罪」を造ったから、自力があるのでありません。
誹謗正法については、以下のお言葉にあるとおりです。

問うていはく、なんらかの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩報といはん。かくのごときらの見をもって、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。(教行信証信巻・往生論註引文

仏も仏法もないといい、その考えを自分で考えたり、人から聞いてそう思うのを誹謗正法というと言われています。
しかし、無仏、無仏法という心や造った罪は、自力そのものではありません。コメントにある表現を使えば、「月を遮る蓋」ではなく、「蓋の下の水」にあたります。

誹謗正法の者だから他のものをあて力にするともいえますが、誹謗正法の罪を造ってきたから自力の心があるというのであれば、罪を消さねば自力の心が無くなることはないということになります。

五逆謗法の罪については、尊号真像銘文にいわれていますが

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文

五逆罪、謗法罪の罪の重さを知らせて、もらさず救うという本願のこころであって、「お前たちは五逆誹謗正法の罪を造ったから現在助からないのだ」と私を、はねつけられているのではありません。
罪を造っているものなら、なおさら救ってみせるという大慈悲の現れが「唯除五逆誹謗正法」の御文です。

この蓋は一枚ではなく、幾重にも重なってできている。T会長の例えでは「下の心を覆うたくさんの布団」のことでしょう。この蓋を取らずして、布団を剥がさずして、名号を受け取ることはできるのでしょうか。「ただいまの救い」に遇えるのでしょうか。答えは否でしょう。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

いろいろ出てくる心はあっても、救いを隔てているのは、阿弥陀仏の本願を疑う心1つであり、自力の心だけです。
いくつも見えても、実体は1つです。
蓋というのも1つのたとえですから、救われていない状態を「蓋ある水」といわれたのであって、蓋を取るとは、「救われなさい」ということです。
コメントの表現を使えば、名号を受け取る=蓋を取るですから、別のことではありません。蓋を取って名号を受け取るのでもなければ、名号を受け取って功徳がわかってから、蓋が取れるのでもありません。

(中略)
そして時満ちて、自力がそのあて力にしていたものを、すべて自ら手放したとき(宿善開発)、弥陀は名号を回向し、行者は全領するのではないでしょうか。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091125/1259106607#c1259196562

いくつも段階はありません。
あて力になったものを手放して、初めて回向される阿弥陀仏ではありません。仏智不思議の名号は、現在ただ今回向されているのです。有る段階になってから初めて回向されるのではありません。

手放さないと、布団を一枚一枚とっていかないと救われないのであれば、ただ今救われることはありません。
ただ今回向されている名号を聞いて救われたのが、自力がなくなったということです。言葉が違うだけで同じ事です。

布団は残っていません。
といいますか、最初からないのです。布団があると思っている計らいを捨てて、現在救うぞと働いておられる阿弥陀仏に救われてください。