安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定したら自力無功が知らされるだけでなく、一生造悪の自己もはっきりするのでしょうか。一生造悪の自己が知らされるなら、この世を生きていくのが恐ろしくなって、もうこれ以上の悪を造らないために直ぐに阿弥陀仏の浄土に旅立つことを考えませんか。」(親とは?さんのコメント)

親とは?さんよりコメントを頂きました。ありがとうございました。また、複数の方よりコメントを頂き有難うございました。

親とは? 2012/01/16 18:08
(略)
真実の善は私達にはできないと言う一方で、真実の善ができない自己がわかるまで献金(善)をせよと言います。また親鸞会に献金すれば、善因善果で必ずよい報いがあるとも言います。ところが阿弥陀仏の救いには私達の善は役に立たないともいいます。
親鸞会に献金することが果たして善なのかということも疑問ですが、信心決定したら自力無功が知らされるだけでなく、一生造悪の自己もはっきりするのでしょうか。一生造悪の自己が知らされるなら、この世を生きていくのが恐ろしくなって、もうこれ以上の悪を造らないために直ぐに阿弥陀仏の浄土に旅立つことを考えませんか。
また、私のする善が役立たないと言いながら、真実の自己が判るまで「親鸞会が勧める善」せよとは、論理的におかしくないですか。
よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120116/1326701511#c1326704922

お尋ねの「信心決定したら自力無功が知らされるだけでなく、一生造悪の自己もはっきりするのでしょうか。」の答えは、「一生造悪の自己はハッキリしません」です。実感としては、救われた途端に罪悪観が非常に強くなったということはありません。

こういうことを書くと「それは個人の体験談ではないか」と、親鸞会の人はすぐに言ってきますが、仮に、信心決定=一生造悪の自己の自覚とすれば、それは地獄秘事です。

なぜ、親鸞会の人がそのような考えになるのかといえば、それは高森顕徹会長が、機の深信(自力無功)と罪悪観をイコールだと話をしているからです。事実高森会長の著書「なぜ生きる」を読むとそのまま機の深信=罪悪観の内容で書いています。
目次だけ一部紹介しますと

なぜ生きる

なぜ生きる

(14)親鸞聖人と刀葉林地獄ー機の深信
(以下、機の深信の説明として章が続く)
(15)「邪魔者は消せ」心底にうごめく“名利の冷血獣”
(16)ゾッとする巨悪の本性
(17)善いことをすると腹が立つ
(18)「地獄は一定すみか」の自己との対面

標題だけ拾ってみますと、高森会長のいうところの機の深信とは、以下のようなものです。
「機の深信」=「邪魔者は消せ」の自覚=「巨悪の本性」の自覚=「善いことすると腹が立つ」の自覚=「地獄は一定すみかの自己」の自覚

この本を持っておられなかったら全く買う必要はありませんが、もし持っておられたら開いて読まれたらいいと思います。確かに、信心決定した途端にこんなたくさんの悪が自覚されたら自殺したくなると思います。

仮に、「信心決定したら一生造悪の自己が知らされる」という高森会長の説が本当だとするならば、高森会長は信心決定していないし、講師のだれも信心決定していないということになります。なぜなら一生造悪の自覚がある人なら、あれほど上から人にものをいうはずはないからです。

反対に、「一生造悪の自己が知らされる」のがウソとすれば、高森会長は信心決定していることになるのかもしれませんが、60年近く親鸞聖人の言われないことを、これが親鸞聖人の教えだと偽って、名利のために不浄説法をしてきたということになります。
どちらにしろ「信心決定したら一生造悪の自己が知らされる」という高森会長は、ウソを付いていることになります。


機の深信については、前回も書いたとおりですが

深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻より・浄土真宗聖典(註釈版)P218)

http://goo.gl/Pz1UD

この二種深信のご文は、信心について書かれたもので、その説明の順番として、「一つには」「二つには」と書かれているだけであって、「二つの別のものが同時にハッキリする」というものではありません。

機の深信の部分は、「出離の縁あることなし」という自力無功を言われ、それは阿弥陀仏がご覧になった私の相です。そういう自力無功の私が、「願力に乗じて、さだめて往生を得」というのが法の深信です。
上記のことを一文で言い換えますと、「自力ではとても出離のできない私が、本願力によって往生する身になりました」というのが二種深信の内容です。


次の「私のする善が役立たないと言いながら、真実の自己が判るまで「親鸞会が勧める善」せよとは、論理的におかしくないですか。」については、論理的におかしいですし、教義としてもおかしいです。

論理的な面は、読んだ通りなので、教義面からおかしいところを書きます。教義として、このように親鸞会が主張する理由は、「真実の自己(一生造悪)が知らされたら救われる」または「真実の自己が知らされる過程が信仰が進む道程」という考えからです。この考えは全く間違いです。また「教義として」というのは、「実地の体験として、一生造悪が知らされた」という人に、私は親鸞会で会ったことがないからです。

最初の、「真実の自己(一生造悪)が知らされたら救われる」については、真実の自己を知るために善をしているのですから、結果として「私の善に功があった」となり、自力無功ではなく自力有功となります。そうなれば、自力が間に合って救われるという話になります。
次の、「真実の自己が知らされる過程が信仰が進む道程」というのは、阿弥陀仏の救いにそんな「過程」も「道程」もありません。阿弥陀仏の直ちに来たれとよびかけられる南無阿弥陀仏を聞く一つだからです。


また、親鸞会の上記の二つの説は、要するに「自己を追い込み罪悪に苦しむものにこそ仏の慈悲は注がれる」というものです。しかし、それは仏の慈悲を間違って聞いています。自己の善悪に囚われて、信罪福心をもって本願をそのまま聞こうとしない相こそ、仏の慈悲から遠ざかっている相です。もちろん阿弥陀仏は、そんなものにも慈悲をかけられているのですが、自分自身の思い込みでその如来の慈悲をはねつけているのです。そのように、阿弥陀仏の本願から遠ざかるように勧めているのが高森会長です。

では、阿弥陀仏の本願から遠ざけて、何を勧めているのかといえば、親とは?さんに言われるとおり一つは献金です。もうひとつは、高森会長および親鸞会組織への服従です。

私が親鸞会講師部にいたころ、「罪悪」として問題にされたのは、五逆罪のなかの「和合僧を破る」でした。親殺しの五逆罪を問題にされた記憶は一度もありません。
親殺しを問題にしないにも関わらず、ひたすら問題にするのは「和合僧を破る」と「謗法罪」でした。そのどちらも親鸞会内部での定義は、「高森会長の指示に反する言動」でした。「高森会長の指示に反する言動」には、とにかく厳しい指摘が浴びせられました。
一例を上げると、「行事の参詣目標未達成」「献金目標未達成」など「会長の機嫌を損ねる言動」です。

要するに「人や金が集まらないと会長先生の機嫌を損ねる」から、「会長先生の機嫌がよくなるように人や金を会長がいうだけ集めよう」というのが、親鸞会という組織です。それを望んで親鸞会という組織を作り上げてきたのは高森顕徹会長です。

親鸞会の主張に従って、仮に献金や活動に命をかけたら、講師部員や会員は真実の自己(和合僧を破る自己、謗法罪の自己)が知らされて、「私は会長の指示に従う気持ちがありませんでした」となるのでしょうか?

仮にそうだとしたら、私も「親鸞会的機の深信」がたったのかもしれません。そうなると退会者はみんな信心決定した人になってしまいます。しかし、そんなものは機の深信とは言いません。

いずれにしろ、親鸞会で主張するところの善(献金)の勧めは、高森会長の要求であって、阿弥陀仏の救いとは無関係です。
阿弥陀仏は、ただ今救うとしか言われていません。本願をただ今聞いてただ今救われて下さい。