安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「全人類が無間業かどうかは、自身の心を深く反省すれば分かると思います。」(ギゼンさんのコメント)

ギゼンさんからコメントを頂きました。ありがとうございました。

ギゼン 2012/01/13 02:26
陣痛とは、兵士が命懸けで戦に挑むぐらいの苦痛ということから言われています。

産みの苦しみを親に与えたことは、罪にはならないですか?
それはやはり不可抗力という見解でしょうか。

あと全人類が無間業かどうかは、自身の心を深く反省すれば分かると思います。

普段どんなことを思い、考えているか。

自分は、来世に地獄に堕ちるような悪人なのか、或いは来世によい所へ行けるような善人様なのかと。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120112/1326354470#c1326389197

幹部会員歴数十年さんからもコメントをされていることで、言いたいことをは書かれています。
それ以外のことで、私が思ったことをエントリーとして書きます。

自分の側から何が罪であるとか、その自分の定義した罪で地獄へ堕ちるとか堕ちないを問題にするのは、阿弥陀仏の救いに反します。
理由は、信罪福心でいう罪と機の深信の違いを混同しているからです。

罪悪という言葉は、おそらくギゼンさんが覚えているお聖教のご文にも幾つかあると思います。それを、いくつか列記します。

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(教行信証信巻・機の深信・浄土真宗聖典(註釈版)P218)

http://goo.gl/DqVem

ここで、「罪悪生死の凡夫」と言われています。

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。(歎異抄1章・浄土真宗聖典(註釈版)P831)

http://goo.gl/rFiov

ここで「善悪のひと」と言われています。

さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。(歎異抄後序・浄土真宗聖典(註釈版)P853)

http://goo.gl/8zk38

歎異抄後序では、「我が身の罪悪のふかきほどをもしらず」と言われています。

ここでいわれる「罪悪」について、「罪」と「悪」は結果と原因の関係にあります。悪によって、結果として罪を造るという関係です。このような我が身の悪によって罪が生ずるという考え方を、信罪福心と言います。この「罪福」は、結果の上でいうことで、結果としての「罪福」を信ずるということは、その原因となる「悪・善」を信じるということになります。

ギゼンさんが、「それは罪ではないのか?」といわれるのは、機の深信とは異なった意味でのいわゆる自力の罪悪観のことを言われていると思います。「罪悪生死の凡夫」とか「罪悪のふかき」といわれる罪悪は、自分自身が反省して見出すものです。
それは、ギゼンさんが「自身の心を深く反省すれば分かると思います。」と言われているそのものです。いわゆる人間の良心の働きによって、自分の罪悪を自覚しているということです。

また、そのように自分の良心によって罪悪を問題にするのが、一般的に考えられる罪悪観というものです。そのため、自分自身の良心が無限に働いていくと、自分が感じる罪悪も底なしに深くなっていきます。そのような、自分の良心によって分かる罪悪観の上に立って阿弥陀仏の救いを求めるのが、信罪福心で救いを求めると言われる、第二十願・真門の立場の人です。

それに対して、機の深信であらわされるところの罪悪観は、自分の良心が問題にするのではなく阿弥陀仏の側から、私に先立って問題にされているところの罪悪観です。
それを歎異抄9章には以下のように言われています。

しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 (歎異抄9章・浄土真宗聖典(註釈版)P837)

http://goo.gl/Ul53s

ここでは「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫」と言われています。私の良心で罪に気づくのではなく、仏の側からすでに私に先立って問題にされているのが煩悩具足の凡夫であるという罪悪観です。

このような、自分の良心で気がつく罪悪観ではなく、阿弥陀仏の方から問題にされた罪悪観が機の深信ですが、そのことは、曇鸞大師の浄土論註に書かれています。浄土論註の中の、いわゆる仏願の生起本末を書かれている部分です。

仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。 このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。(浄土論註・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P57)

http://goo.gl/5qCqe

ここで曇鸞大師がいわれる「虚偽の相」「輪転の相」「無窮の相」といわれるのが、善導大師の「機の深信」に当たります。自らの力では、浄土に往生できない、自力無功のことを言われています。
ここでは、「仏本」「三界を見そなはすに」と言われています。先の歎異抄9章にいわれているように、阿弥陀如来の方から、私に先立って問題にされているということです。その阿弥陀如来が私に先立って問題にされていることが罪悪生死の凡夫ということです。

これは「自身の心を深く反省すれば分かる」ものとは、質的に違うものです。
「自身の心を深く反省すれば分かる」は、信罪福心の立場でものを言っているに過ぎません。「仏かねてしろしめして」というのは、機の深信であって、信罪福心を否定する立場で言われたものです。

また、何が罪か、どうかを問題にするのは、罪の沙汰とも言われます。それは全く意味が無いことだと、御一代記聞書にあります。

(39)
一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書)

罪を問題にして意味があるのは「罪消して助けたまはん」という場合に限ります。しかし、「罪の沙汰無益なり」といわれるのは、阿弥陀仏は「たのむ衆生を本とたすけたまう」からです。

自分の良心で判断した罪がどれほど重いかと問題にするのは、何が目的なのかといえば、そういう「悪人の自覚」がなければ救われないとの思いではないでしょうか?それこそ信罪福心そのものです。

また、自分自身反省して「自分は五逆の者だ」と思われたり、「お前は五逆の者だ」と言われるのは分かるとしても、「だから全人類は五逆の者だ」というのは、論理の飛躍があります。「自分がそうなのだから、みんなそう思っているはずだ」というのは、一般的に通らない理屈です。