安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」(おさびしやまさんのコメント)

2012-01-05のエントリーについて、追記です。
おさびしやまさんのコメントの意図を取り違えて書いておりました。申し訳ございませんでした。そこで、複数の方からコメントを頂いて、改めてエントリーを書きます。コメントを書かれたみなさん有難うございました。

広島の名無し 2012/01/05 23:33
たぶん、おさびしやまさんは、長八さんの言われるように「無耳人」、「真実を聞く耳を持たぬ者」という意味で「耳のない者」と言われていると思います。「聞即信」の「聞」は、自分の力ではできない、という意味で「耳のない者」と言われていると思います。「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」といった素朴な疑問を上げておられるのだと思いますがどうでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120105/1325753027#c1325773981

おさびしやま 2012/01/06 11:20
広島の名無しさんの言われるように「聞く力のない者に、聞いて下さい、とは酷なのでは?」という素朴な疑問です。世間ではそういったことはしませんし、している人が居たら、まわりにいる人が注意します。山も山さんは、それを敢えてなさっているので、何か深い意味があるのだろうと思ったのです。それを知りたかったのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120105/1325753027#c1325816423

おさびしやまさんの言われる通り、聞即信の「聞」は、自力で聞いたという聞ではありません。そこで、「聞く力がないものに、聞いてくださいとは酷なのでは?」とのことですが、「自分の力で聞くことができないから、阿弥陀仏の仰せに救われてください」という意味で今まで書いてきました。自力の「聞」(疑いのまじった聞)では救われないので、他力の「聞」(疑いない聞)で救われて下さいという意味です。

聞即信の聞は、「本願を聞いて疑心あることなし」の無疑心のことですから、おさびしやまさんの問いは、「自分の力で無疑心になれないものに、無疑心になれとは酷なのでは?」と言われているのと同じことになると思います。

しかし、無疑心とは何によっておこされるかといえば、名号です。

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P231)

http://2jq.pp.sl.pt

無疑心といっても、自分で頑張って「無疑心になった」ということはありません。無疑心の体は名号ですから、南無阿弥陀仏によって無疑心となります。

なぜ南無阿弥陀仏によって無疑心となるのかといえば、私には自らの力で清浄、真実の心になることができないからであり、そのため阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を回向してくださるのだと、上記のご文の前に親鸞聖人は書かれています。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。
ゆゑに疑蓋雑はることなし。(同上)

※現代語訳はこちら 
「如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。」と書かれています。阿弥陀如来が私に南無阿弥陀仏を差し向けて施してくださっています。その南無阿弥陀仏の回向を、喚び声ともいわれるので「聞其名号」とお釈迦様は言われました。

また、親鸞聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」と言われました。

自分の心で無疑心とはならない私だから、「聞思して」と親鸞聖人がいわれるの「聞」は、名号のお働きによって無疑心となったことを言います。

お尋ねのことについて、もう一度書きますと「自分で聞く力がないから、南無阿弥陀仏によって聞(無疑心)いて下さい。」それ以外にはないので、日頃そう書いています。特別に深い意味はありません。