安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「疑心が無いとは、私の心模様は関係ないのでしょうか?」(頂いた質問)

結局のところ、疑心がないとは素直に如来の本願を受け入れることみたいですね。
疑心のないことはどういうこころ模様なのでしょうか?
疑心が無いとは、私の心模様は関係ないのでしょうか?(頂いた質問)


疑心がないと聞くと、「気分」が「もやもやしたものがない」「すっきりする」というものを想像する人もあると思います。そういう「心模様」と「本願を聞いて疑心あることなし」は、イコール関係ではありません。

「疑心がない」は、「聞」「信心」について親鸞聖人が書かれているところで出てきます。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P678〕

「本願をききて疑ふこころなき」ことが「聞」であり、それは「信心」をあらわすのだと言われています。
「本願をききて疑う」というのは、文字通り「本当だろうか」という疑いもありますが、自分の考えを優先するいわゆる自力の心のことも疑いといわれます。


我が身をたのみ、わがこころをたのむような自力の心を優先すると、本願をその通りに受け入れない状態となります。
「ただ今助ける」という本願に対して、「何かしないと助からない」という思いがあるままでは、本願を受け入れることができません。

そこで「本願をききて疑ふこころなき」というのは、本願をその通りと聞いている状態には、自力の心はない状態であるということです。自力の心(疑)がないということは、本願を私の上でそのまま働いているということです。

「気分」の変化

「どうやったら助かるのか」ということで、日々悶々としていたような人ならば、「どうやったら助かるのか」という疑問はなくなります。そういう意味では「気分」の変化はあります。有り難いという思いも出てくる人は出てきますので、そういう「気分」になるときもあります。
ただ、「気分」はあくまで、「私の心模様」にすぎないので、それを捉えて「これが信心だ」とはいいません。また、「私の心模様」というのは、いろいろな縁によっていろいろと変わります。それを見つめたところで何も出てはきません。

南無阿弥陀仏を聞いている

「有り難い」とか「疑い晴れました」という言葉を聞くと、その部分だけはなんとなく想像がつくので、信心とはそういう「気分」のことだと考える人もあります。
ただそういうものは、あくまで南無阿弥陀仏を聞いている上での話です。ただ今助けるの仰せをそのまま聞いている上でのことです。
なんとなく分かる「気分」のところだけをもってきて、どうしたらそんな「気分」になれるのだろうかと考えたり、そんな「気分」に自分はまだなっていないと考えるのは、「自分の心模様」を見つめているだけなので、どれだけ見つめていても、そこから南無阿弥陀仏が出で来るわけではありません。

南無阿弥陀仏は、私に向かって働いて下さる阿弥陀仏のお働きであって、私の心をどうにか変化させたら出てくるものではありません。南無阿弥陀仏と称えられた本願力を、本願の通りに聞いている状態を、疑心がないといいます。その上では、私の心模様がどう変わっても関係はありません。