安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

善のすすめはあるのか、ないのかという問題に親鸞会講師がものすごくこだわる思考を考えてみた

ではKさん、Mさんよ。(以下略)

http://blog.goo.ne.jp/oonokatu21/e/83d09cbc9a3be4f13dec058fdd0c924e

上記のブログは、最近親鸞会ブログナビに追加されたhttp://blog.goo.ne.jp/oonokatu21の中の一文です。読んでいるとなんとなくMさんって私のことかな?と思いました。

これについての意見は、

に、飛雲さんが分かり易く書かれていますのでこちらをご覧下さい。

また、観無量寿経については、あほうどりさんが作られたhttp://namo.hongwan.net/kanmuryojukyo/を、ご覧下さい。

善の勧めがあるのか、ないのかということについては、すでに、多くのブログで検証されていることです。
今回のエントリーは、なぜそのようなことをことさら問題にするのかという親鸞会講師の思想的背景についての私が思ったことを書きます。

【本願文の「唯除」を「排除」と読んだから】

自分もかつて親鸞会にいたときのことを振り返り、現在親鸞会の講師をしている人の考えを振り返ると、本願文の「唯除五逆誹謗正法」の「唯除」を「排除」という意味で理解しているからだと分かりました。

「本願にも除かれた者」「ただ除くと、本願にもれたものが私たち逆謗の屍」という言葉をよく聞きました。最初聞いた頃は、この「唯除」の意味がわからず「排除」されたのだと思っていました。そう思う背景には、「親鸞会にいる人は、選ばれた中の選ばれた人」という話も同時によく聞いたからだと思います。

自分は排除された人間だと思うと、なんとか排除されないようにと勤めます。やりたい放題でいいのかと悪を恐れ、善をしなければ救いから遠ざかるような考えは、排除されたくないという考えが根本にあります。

また、元親鸞会にいた人間に対して徹底して批判的または無関心な態度ができるのも、「排除された者」の考えが根本にあります。
元々排除された人間だから、どう扱ってもよいのだという考えになります。悪人は排除されるべき、自分は排除されない方の人間だという考えが、元親鸞会にいた講師、会員に対する徹底した批判、または無関心となってあらわれます。

阿弥陀仏の本願で「唯除」と誓われているのは、決して排除されたのではありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文・註釈版聖典P644)

五逆、誹謗正法の罪の重さを知らせて、一切の衆生をもれずに往生させるという阿弥陀仏の大慈悲心から仰っていることであって、阿弥陀仏が五逆や謗法の者は排除すると言われたお言葉ではありません。

本願から除くと言われる重い罪を作るような凡夫だから、絶対に見捨てないぞ、必ず救うぞと誓われているのが「唯除」というお言葉です。
罪を作らなくできるならば、作らないような者になりたいです。しかし、それができないからこそ、阿弥陀如来は五逆や謗法の者をそのまま救うと誓われているのです。

見捨てられると思ったり、排除されると思って、悪を恐れ、善に励もうとするのは阿弥陀仏の大慈悲が分からないのです。自分を是として、そうでない人を排除してきた人間には、そのままでよいから救うと誓われた本願分からないと思います。

細い道をひたすら登っていく道は、登れる人も少なくまた、たどり着く人は稀でしょう。その道を降りていったところに、弘誓の仏地は広がっているのです