安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自分の心を見てみると、本願をそのまま聞けと言われてもどうしても不安な心が先に出てきてしまいます。(頂いた質問)

自分の心を見てみると、本願をそのまま聞けと言われてもどうしても不安な心が先に出てきてしまいます。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願の救いは聞く一つなのですが、なんとか聞こうとする人には、不安や恐怖が付き纏います。このように言われる方の中には、自分の心に「これで大丈夫」という確信を得てから、本願を聞こうとする人があります。

しかし、自分の心にどれだけ訪ねてみても安心は出て来ません。
善導大師の二河白道の譬えに出てくる旅人を、自分自身の相と考えられれば分かりやすいと思います。

旅人は群賊悪獣に追いかけられ、水の河と火の河、その中間にある四五寸の白道を前に考えます。

すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。(教行信証信巻・大信釈ー引文ー二河譬・浄土真宗聖典(註釈版)P224

引き返せば群賊悪獣に殺されてしまう、留まっていても群賊悪獣に殺されてしまう、前にゆけば火の河と水の河に落ちて死んでしまう。しかし、前にしか道はないから進もうと考え直します。

その旅人に呼びかける声があります。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(同上

東の岸の人は「行け」と勧め、西の岸の人は「来い。大丈夫だ」と招いておれらます。

その声を聞いて旅人は、白道を進みます。途中で、群賊が引き返せといっても、全く振り返らず西の岸に至ります。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。(同上

以上が、二河白道の旅人についての話です。

阿弥陀仏の本願を聞こうとしている方は、この二河白道の譬えで言えば、ちょうど河岸にたって白道を進もうか、どうしようかと悩んでいる状態です。
旅人の目から見ると、どうしてもこの白道は「四五寸」しかなく、どう考えても「安心」して踏み出せない道です。

そんな旅人が、「この道は大丈夫なんだという決心がついたらわたろう」といくら考えても、「これで大丈夫」という安心は私の心から出て来ません。その河岸で、何百回勤行をしようが、何万回念仏を称えても、それで「これで大丈夫」という確信は得られません。

この二河白道の譬えに出てくる旅人は、「自分でこれで大丈夫」という確信を得てから白道に足を踏み入れたのではありません。
東の岸の人の勧めと、西の岸の人の喚び声を疑いなく信じて進んだのです。
特に西の岸の人が「われよくなんぢを護らん」と言われたことに疑いないから踏み出しました。これは「大丈夫だろうか」と不安に思う旅人に対して、阿弥陀仏が「大丈夫だ。問題ない」と言われているからです。
「お前は大丈夫だ」と、常に私を護ってくださる阿弥陀仏の声に疑いないのが、信心です。

安心といっても、自分の心からは出て来ません。阿弥陀仏の「大丈夫だ」の声の中にしか安心はありません。

自分の心を「安心させよう」と頑張るのは、百年河清を待つよりも無駄なことです。二河白道の譬えに出てくる旅人を想像して下さい。
わずか四五寸の白道を前にして「大丈夫だ」と自分に言い聞かせた所で、それはただの自己暗示であってなんの保証も、安心もありません。100年経ってもそこから安心はでてきません。まして、光に向かって進もうが、地元の会館を建てようが、無添加の弁当を何万食食べようが関係ありません。
聞くべきは阿弥陀仏の「大丈夫だ」の声であって、自分の確信ではありません。

なぜ安心できないのだろうと思っている方は、向いている方向が、自分の判断、知識になっています。向くべきは、阿弥陀仏の「大丈夫だ」の仰せです。そこにしか、安心はありません。それを聞いて疑いないところにこそ、安心はあります。必ずただ今救われます。