安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会機関紙顕正新聞12月1日号10面の「ここがおかしい」がおかしい件

タイトルの顕正新聞12月1日号を読みました。当エントリーで取り上げるのは、10面「法友通信:善知識のご教導とここが違う 群賊・悪獣・悪知識」に書かれてあった記事です。
内容もおかしなものなので、また機関紙にだけ掲載して会員向けに外部批判記事を書いているのかと思っていたら、親鸞会公式サイトに掲載していたので驚きました。


以下、公式サイトより抜粋

今日、各人各様の“救われた”体験を語り、親鸞聖人の教えを真面目に求める親鸞学徒に忍び寄ってくる群賊悪獣たちがいます。(警鐘・親鸞聖人の教えと異なることを語る者たちの特徴 (2/3)|浄土真宗 親鸞会

ここがおかしい
各人各様の“救われた”体験談を自慢する。
「18願だけで救われる」「方便は不要」と言い、三願転入を否定する。
救われたと言いながら、弥陀に計らわれた過去を恨み呪う。

http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/taiken-shijojagi-ayamari03.htm


おかしなところは、大きく二つあります。
1つは、「各人各様の“救われた”体験を語り」と親鸞会が言っていた「群賊悪獣」の定義に、ネットの親鸞会批判意見を付け加えていることと。(2番目と、3番目)
2つは、「弥陀に計らわれた過去を恨み呪う」と、「親鸞会批判」をする人を勝手に、親鸞会を恨み呪っていると定義づけていること。


URLにも「taiken-shijojagi-ayamari(体験至上邪義誤り)」とわざわざ書いているのですから、「体験至上主義者」に対する批判を展開するのは勝手です。しかし、「体験至上」の主張をそもそもしていない親鸞会批判者の意見を紙面に並べ、さらにネットに公開するとなおさらおかしく感じます。弘宣局内で編集しているときには、これをおかしいと感じない所がおかしいです。


法友通信という形で紹介されているのが、親鸞会機関紙の意見ですが、2つめについて

親鸞聖人は比叡山で20年も苦行されました。普通なら、「20年も無駄をさせられた、慈鎮和尚にだまされた!オレの20年を返せ!」と恨んで当然ですが、親鸞聖人は全く正反対で、「弥陀のご方便だった」と喜んでおられます。

http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/taiken-shijojagi-ayamari03.htm

そもそも「恨んで当然ですが」というのがおかしいです。これは、「もし親鸞会の言っていることが間違いだったら当然そう思う」という会員の意見そのものです。
加えて、親鸞聖人が「弥陀のご方便だった」と喜んでおられることは取り上げていても、阿弥陀仏の本願を間違えて聞く人や伝える人には大変厳しく批判をされたことは全力で無視しています。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。(教行信証化身土巻(本)真門釈-真門決釈

これは「助正間雑し、定散心雑する」ですから、浄土門内の人に向けて厳しく意見をされているところです。同じ阿弥陀仏の本願を聞き、念仏する人でもそれを間違って聞いている人、伝えている人には「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」「信を生ずることあたはず、仏智を了らず」「報土に入ることなきなり」と大変厳しく批判されています。
親鸞聖人の書かれたことを縮めて言えば「未来永遠救われない、信心獲得もなければ報土往生もない」です。当然これは、恨み呪いを同じ法然上人のお弟子であった人に向けられているのではありません。「悲しきかな」「まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし」と、悲しんであえて厳しく意見されているところです。

一応親鸞会も浄土真宗だと主張をしているのですから、この親鸞聖人の書かれた文章をわがことと思って読まねばなりません。


なぜ親鸞会・高森会長の主張する「教義」を批判するのかといえば、「恨み呪い」ではありません。「間違っているものは間違っている」と当たり前のことを言っているだけです。
この高森会長やこの機関紙を書いた人だけが一人内心で思っているだけなら誰も批判しないでしょう。過去も含めて現在も多くの人間に、間違った浄土真宗を伝えているからそれを指摘しているだけです。


「恩義を受けたらな、間違いがあってもそれを見逃せ」「間違いを指摘するとはとんでもない」とは、不正会計を指摘した社長を解任したオリンパスと同じです。

親鸞会は、過去自分たちが本願寺に対して主張したことは「批判」であり、現在自身が「批判」されていることは「恨み呪い」と思っています。
そんなことを「ここがおかしい」と機関紙だけでなく、公式サイトにまでのせているのは、ほんとうにおかしいです。



最後に追記ですが、公式サイトに掲載されている法友通信の人名は、機関紙掲載とは別人物です。公式サイトの更新をしている人は、せめて「○○県 ○○○○(仮名)」と書くべきです。仮名を実名として書くのは、仮名どころか虚名です。教義は「自分たちは正しい」と思っているのは仕方ないかもしれませんが、せめてそれ以外の所でウソを書くのはやめましょう。